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プロフィール

 

名前:マレーネ・ディートリヒ(Marlene Dietrich)
出生地:ドイツ ベルリン 
生年月日:1901年12月27日

1920年代から女優として活動をはじめ、1930年にドイツ映画初のトーキー映画『嘆きの天使』に出演し、一躍注目の存在となったマレーネ・ディートリヒ。同年にハリウッドに進出し『モロッコ』(1930年)でアカデミー賞主演女優賞にノミネートされました。
類まれな美貌、演技力、そして「100万ドルの脚線美」とも謳われたプロポーションが脚光を浴び、ハリウッドのトップスターとして活躍。1939年にアメリカの市民権を獲得し、第2次世界大戦下では軍への慰問活動を精力的におこなっていたことも知られています。
1950年代からは歌手としての活動が増え、ヨーロッパを中心に世界各地でツアーを開催。1970年と1974年には日本でもコンサートを行っています。
後年はアルコール依存症などの問題を抱えながら活動。コンサート中の怪我が原因で1975年に引退し、1992年、90歳で亡くなりました。
引退後はパリで暮らしていたことはわかっているものの、私生活を明かすことはなく、静かな晩年を過ごしたとされています。

私生活では、1924年にルドルフ・ジーバーと結婚し、娘のマリアを授かったものの、すぐに別居。離婚はせず自由な夫婦関係でいたとされています。夫にも愛人の存在があった一方で、ディートリヒ自身もジョセフ・フォン・スタンバーグ監督やゲイリー・クーパー、ジョン・ウェイン、ジャン・ギャバンなど、多くの著名人との恋愛が注目を集めました。

「若いころ」「昔」の写真11選

まず、マレーネ・ディートリヒの「若いころ」「昔」の写真をピックアップ。

1930年(28歳)映画『モロッコ』の衣装で

 

1933年(31歳)ハリウッドにて

 

1935年(33歳)カリフォルニア パサデナにて

 

1935年(33歳)映画『西班牙狂想曲』の衣装で

 

1937年(35歳)

 

1937年(35歳)

 

1939年(37歳)映画『砂塵』プロモーション写真

 

1940年(38歳)映画『妖花』より

 

1940年代

 

1940年代

 

1945年(43歳)ヨーロッパツアーからの帰還 ラガーディア飛行場で

左は、リン・メイベリー。
左はリン・メイベリー。

「映画」代表作4選


ここからは、チェックしておきたいマレーネ・ディートリヒの代表出演「映画」をご紹介します。

『嘆きの天使』(1930年)

 

ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督。ハインリヒ・マンの小説『ウンラート教授:あるいは、一暴君の末路』が原作。ドイツ映画初のトーキー作品として製作された。

あらすじ:生真面目で厳格なラート教授(エミール・ヤニングス)は、生徒たちがキャバレーに通っていることを知り、取り締まりのために店を訪れる。そこでローラ(マレーネ・ディートリヒ)という踊り子に出会い、その魅力の虜になってしまったラート。すべてを投げ出しローラと結婚するが、職を失ったラートは困窮し、道化芸人にまで身を落としてしまう。

『モロッコ』(1930年)

右が、ポール・ポカルシ。
右が、ポール・ポルカシ。

ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督。ベノ・ヴィグニーの舞台『Amy Jolly』が原作。この作品でマレーネ・ディートリヒはアカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。

あらすじ:1920年代のフランス領、モロッコ。キャバレー歌手のエイミー(マレーネ・ディートリヒ)は、プレイボーイの軍曹トム(ゲイリー・クーパー)に出会い、恋に落ちる。しかし、エイミーは金持ちの紳士ラ・ベシェール(アドルフ・マンジュー)から求婚されており、その事実を知ったトムは身を引くことに。ベシェールと婚約することになったアミーだが、トムが負傷したことを聞き、いてもたってもいられず病院を訪れる。

『上海特急』(1932年)

左は、アンナ・メイ・ウォン。
左は、アンナ・メイ・ウォン。

ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督。ハリー・ハーヴェイの短編小説を題材とした作品。

あらすじ:1931年、内戦が続く中国。北京から上海に向かう「上海特急」には、多種多様な乗客が乗り込んでいた。そのなかには、謎めいた女性上海リリー(マレーネ・ディートリヒ)と、その元恋人で軍医のドナルド・ハーヴェイ大尉(クライヴ・ブルック)の姿もある。途中、列車は反乱軍に襲撃され、ドナルドは人質にされてしまった。リリーは彼を救うために、危険を顧みず身を投げ出す。

『情婦』(1957年)

 

ビリー・ワイルダー監督。アガサ・クリスティの短編小説『検察側の証人』を原作とした作品。

あらすじ:弁護士のロバーツ卿(チャールズ・ロートン)は、未亡人殺しの疑いを懸けられたレナード・ヴォール(タイロン・パワー)という男の弁護を担当する。事件の鍵を握るのは、レナードの妻クリスティーヌ(マレーネ・ディートリヒ)。夫のアリバイを証明するはずのクリスティーヌだったが、検察側の証人として法廷に立ち、夫が殺害計画を立てていたと証言してしまう。レナードの有罪が確定的となるが、事件は予想外の展開をみせる。

「元恋人/娘」の写真4選


1924年、ハリウッドに進出前の22歳で助監督のルドルフ・ジーバーと結婚し、同年に娘のマリアが誕生。夫婦関係は早々に破綻したものの、離婚はせず。ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督をはじめ、ジャン・ギャバンやゲイリー・クーパー、フランク・シナトラなど、著名人と自由な恋愛をしていたことも知られています。ここからは、「元恋人/娘」の写真をピックアップ。

当時交際していたフランス人俳優のジャン・ギャバンと

1941年 ロサンゼルスのレストランで。
1941年 ロサンゼルスのレストランで。

1924年に誕生した娘のマリアと

 

1948年 『Vogue』誌より

 

1951年 ロサンゼルスでの昼食会

母娘仲は良好ではなかった。

「美貌遍歴」11選


次に、1950年代からの「美貌遍歴」をお届けします。貴重なジーンズ姿も。大女優がみせる自然な笑顔にも注目です。

1950年(48歳)ロンドンの空港で

 

1950年(48歳)映画『舞台恐怖症』より

 

1951年(49歳)映画『ノーハイウェー・イン・ザ・スカイ』より

 

1954年(52歳)ロンドンにて

 

1955年(53歳)

 

1957年(55歳)

 

1959年(57歳)パリ エトワール劇場での公演時

 

1960年(58歳)作曲家のバート・バカラックと

 

1962年(60歳)

 

1963年(61歳)ロンドンにて

 

1971年9月(69歳)ロンドンの空港で

 

「晩年」の話題


女優として歌手として、絶大な人気を誇ったマレーネ・ディートリヒ。
華やかな恋愛歴や功績が注目される一方、後年はアルコール依存症など健康問題に悩まされたといわれています。
引退後は、パリで静かな余生を過ごしたとのこと。そして、1992年、90歳で亡くなり、亡骸は故郷ドイツ・ベルリンの墓地に埋葬されました。2002年にはベルリン名誉市民の称号を贈られています。

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