還暦を迎えるにあたり、老いとその効用について考えます
自己否定から自己肯定へ。それが美しい「老いへの道」
自分がこの時を迎えるなんてすごく不思議です。11月で還暦を迎えました。60歳になるというイメージがまったくつかめないまま、普通に誕生日がやってきただけなので、還暦といわれても自分としては文字で表すと「カンレキ」みたいな、どこか遠いところで起きているモノゴトな感じです。
でも、それって別に還暦を迎えたことを拒絶しているわけではありません。60歳になったことはごくあたり前のことだし、ただピンときていないだけなのです。50歳代に移るときにはこんな気持ちにはならなかったので、「還暦」をことさら人生の重要な節目としてお祝いする日本の習慣に私がひとり、ざわっとしているのかもしれません。そんなわけで、今回のエッセイでは誠に私事ながら60歳をきっかけに「老いとは何か?」について考えてみたいと思います。
樹木希林さんの「率直さ」に魅せられる
先日75歳で亡くなった女優の樹木希林さん。彼女の晩年の美しさには、ひと際惹きつけられました。全身をがんで冒され、片目の光を失いながらも、顔色もつやつやで白髪の勝ったショートボブが樹木さんのにじみ出る知性をとてもうまく引き出しているように見えました。清々とした潔さにあふれていて、月並みですがキラキラと輝いていました。もしこれが「老いる」ということであれば、なんと老いることは美しいことかと思います。
樹木さんはよく「モノが増えるのはイヤなの」と話されていました。他人からモノをもらうのが嫌いとも。なぜならば、それは(モノをくれる)相手の一方的な気持ちであって、自分がそれを望んでいないし、欲しくもないから、(モノをくれようとする相手に)「やめて」と言うのだそうです。
この言葉には胸を突かれました。私なら「嫌」でも表面的には「ありがとう!」と言って受け取って、そしてそれをどうやって処分するかあれこれ悩むだろうと思います。逆に相手の気持ちも聞かずに「これを贈ったらきっと喜んでくれるだろう」と一方的に「自己満足的善行」をしていることもあるからです。
樹木さんのように「要らない」と言うのはとても難しいことです。相手の気持ちを考えるとむげにも断れない。でもいただいて「処分」する方がどれだけ失礼なことか。歳を重ねる、つまり老いるとは、どんどん自分に率直になっていくことなのではないでしょうか。要らないモノを要らないと言える。嫌なことは嫌と言える。そうすれば、樹木さんのようにムダなものが一切合切そぎ落とされたような「顔」を手に入れることができるのかもしれません。
自分に率直になれることが老いの効用だとすれば、その逆もあります。それは老いによってできることが奪われていくことです。たとえば平気で徹夜仕事ができていたのに、もう無理! 時差ぼけの解消には「運動が一番」だったはずが、それも無理! 気がついたら、子供のころに普通にできていたスキップができないなどなど。そんな「できなくなった」コトが積み重なって自身の加齢にため息をつくのです。
ですが、私は「○○ができなくなった」こと自体は老いではないと思っています。「老いる」とは「○○ができなくなった」自分を自己否定することだと思うのです。何かができなくなっても、それは物理的な必然です。よほどのトレーニングでもしないかぎり、老いは平等です。「だから私はもうだめなんだ」と、加齢による自分の変化に対して自己否定を始める。それこそが老いだと私は思うのです。
「○○はできなくなったけど」けっこう身軽で自由で楽しい自分がいる。歳を重ねてその分自分に率直になれる。そういう自己肯定が、きっと樹木さんのような美しい「老い方」への道なのだと思います。
※本記事は2018年11月7日時点での情報です。
- TEXT :
- 安藤優子さん キャスター・ジャーナリスト
- BY :
- 『Precious12月号』小学館、2018年
- EDIT :
- 本庄真穂