いよいよ白熱の80’s対談も佳境。第四回となる今回はバブル全盛期の遊び場についてお話を伺った。コロンビア映画やロックフェラーセンターを日本企業が買収し、「日本が世界を買う」と本気で思われていた空前の時代、男たちはこんなにもパワフルに遊んでいた。話せないことばかりゆえ大幅にカットしているが(笑)、そのムードはご理解いただけるはずだろう。

今こそ、1980年代ファッションを語ろう!バックナンバー

ディスコ全盛期、なぜ男たちはこんなにも遊んでいたのか?

山下 当時の皆さんって、ほんとに不思議なんですよね。若いのに高い車に乗って、おいしいものを食べて。

鎌田 僕も、SLに乗っていました。サラリーマンなのに。

矢部 だから、やっぱり何か回っていたんですよね、不思議と。

山下 普通の人の給料がよかったんですか?

鎌田 いや、何かね・・・(苦笑)。

矢部 クレジットでまわしたりとか(笑)?

鎌田 骨董通りにブルーノートができたとき、誰もお客さん入らないんですよ。で、仕事が終わったら、洋介さんに「全員、おまえらブルーノートに行け。ただで飲んでいいから」って。

※ブルーノート ニューヨークの名門ジャズクラブ「Blue Note」の東京店が、1988年、南青山の骨董通りにオープン。正式名は「ブルーノート東京」。現在は場所を根津美術館近くに移し、ジャズを愛する大人たちの格好の場となっているが、多くのファンをつかむまでにはそれなりに時間も要した。
※洋介さん 伊藤洋介さんのこと。大阪が本社のアパレル商社「ライカ」社長の御曹司にして、当時、“ヴェリー ウォモ”“エンポリオ アルマーニ”などを扱う海外事業部の実質上のトップとして辣腕をふるった。

矢部 はーっ、そういうこともあったんですか。

鎌田 ファッションショーをやるじゃないですか。そうしたら、だいたい打ち上げはブルーノートですよ。

矢部 そういうの、多かったかもしれない。そんな流れで、80年代の遊び場のことを、話せることだけ(笑)教えてください。

四方 当時の遊び場といえば、やっぱりディスコだろうな。当時は、クラブってあんまりなかったよね。

鎌田 場所で言うと、西麻布が多かったんじゃないですかね。

山下 当時、西麻布というのは、やっぱり最先端の場所だったと。

鎌田 僕の若いころは、328があって、レッドシューズがあって、トゥールズバーがあって、そのちょっと後にピカソですよね。

※328 1979年、西麻布交差点のすぐそばにオープンしたクラブ。多くの有名ミュージシャンや著名人にも愛された。オーナーは業界で知られた前園勝次さん。
※レッドシューズ 1981年、西麻布にオープン。「328」と共に‘カフェバーブームのはしりとなった伝説的な店。95年に閉店。
※トゥールズバー 「328」「レッドシューズ」と並んで、西麻布の3大クラブといわれた。RIKAKOさんをはじめ、芸能界の常連が多かった。
※ピカソ 西麻布の交差点から六本木に向う途中のビルの地下にあった。後に「イエロー」や「ケーブ」なども開いたプロデューサー、村田大造(だいぞう)さんが21歳のときに立ち上げた革新的なクラブである。

矢部 でも、ずっとあの六本木通り界隈ですよね。

鎌田 そうですね。レッドシューズは、ものすごい印象がありますね。やっぱり業界の方がみんな集まっていたという。

矢部 そうですね。

矢部 四方さんが行っていらしたディスコというのは、どこを指すんでしょうか?

四方 ハシゴしてた。俺、古いのは、もうキャステルだよね。その前のムゲンの隣、何だっけ。あの……。

※キャステル 六本木スクエアビル地下1階にあった高級会員制ディスコ。黒大理石に包まれた空間は、まばゆいばかり。ファッション業界の社交場となったハイセンスなディスコだった。

矢部 ビブロス

※ビブロス 日本で初めて服装チェックをした伝説的な赤坂のディスコ。ロック中心の選曲が人気だった。

四方 そう、そこは加藤和彦とか、菊池武夫によく連れていってもらって。いつも真ん中のところに小夜子がひょろっといて。

※小夜子 日本のファッションモデルとして頂点に君臨した山口小夜子さんのこと。パリコレには欠かせないエキゾチックな東洋の美として人気を博した。

山下 へえーっ。昔は、赤坂が遊び場だったんですね……。

四方 といっても、そのビブロスとムゲンだけだよね。

※ムゲン 1968年、赤坂にオープンした高級ゴーゴークラブ。三島由紀夫、澁澤龍彦、横尾忠則、安井かずみ、三宅一生さんなど、当時の超有名人が通い、一世を風靡した。「ビブロス」と同じパンジャパンビルにあり、その地下フロアを占めていた。

鎌田 そうです。

四方 あれ、裏でつながっているんですよ。だから、通になると、ムゲンに行って遊んで、また戻ってきてみたいな。

山下 へえーっ。それが80年代になると西麻布に移る、と。

鎌田 そうですね。クラブのはしりというのはピテカンですかね。ピテカントロプス藤原ヒロシ君とか、高木完ちゃんとか、いとうせいこうさんとかがライブをやっていて。

※ピテカントロプス 原宿のクラブ&バーで、正式には「ピテカントロプス・エレクトス」。代表を務めたのは選曲家の桑原茂一さん。坂本龍一さんをはじめ、デヴィッド・バーンなど海外からも多くのアーティストがライブに参加。ファッション業界、音楽業界、芸能関係者で毎晩賑わった。
※藤原ヒロシ君 日本を代表するDJ。高校生の頃、新宿のディスコ「ツバキハウス」主催のDJグランプリを受賞し、クラブシーンに入る。音楽評論家でDJの大貫憲章さんから薫陶を受けると共に、エリック・クラプトンなど世界的なアーティストと交流。自身のファッションブランド“フラグメント”は、別格のストリートファッションだ。
※高木完ちゃん ヒップホップミュージシャンであり、DJとしても活躍。「ピテカントロプス」や「ツバキハウス」で頻繁にライブを開催。独特の文体で、雑誌『ホットドック・プレス』や『宝島』などでライターとしても活動していた。
※いとうせいこうさん 本名は、伊藤正幸と書く。元々は講談社の社員編集者で、雑誌『ホットドック・プレス』などの編集部を経て、作家&クリエーターとして独立。小説『ノーライフキング』など、著書多数。

矢部 ああ、藤原さんも行っていたんですね。

鎌田 ニューヨークから帰ってきたばかりだっていってて。そこに、みんな洋服屋さんが集まって、夜な夜なという感じですよ。もう朝まで。あふれ返っていましたからね、人。

矢部 最初は、日比野克彦さんですよね。インテリアを全部やられたのは。

※日比野克彦さん パルコが主催した第3回日本グラフィック展において、段ボールを素材にした立体作品で大賞を射止めると、瞬く間に若手アーティストの頂点に登り詰めた。NHK教育テレビの人気番組『YOU』の司会を務め全国区の人気者に。現在、東京芸術大学美術学部教授を務める。

四方 あれは、Iって……(以下ブラックな話なので省略)。

山下 山本コテツさん岡田大貳さんといった方の名前は、埼玉の小学生だった僕の耳にも届いてましたよ。

※山本コテツさん 1980年代当時、最も活躍していた空間プロデューサーのひとり。手がけた店舗は、六本木のディスコ「トゥーリア」やライブハウス「MZA有明」などがある。
※岡田大貳さん レストラン文化を牽引したプロデューサー。チャイニーズレストラン「ダイニズテーブル」はつとに有名。

矢部 空間プロデューサー! フラミンゴバーとかじゃないですか?

※フラミンゴバー 六本木の老舗ショーラウンジ。オープンは1986年。艶めかしいダンスショーは同店のオハコだ。

四方 マガジンハウスに出入りしていて、これが●●●●でさ(爆笑)。なんだけど、テニスはすごいうまかったらしいんだよ。

山下 テニスだけですか(笑)。

四方 それと、今、●●のかみさん、何ていったっけ?

山下 ●●●●さん。

四方 それが一番売れているころ、つき合ってるんだよ。

山下 ああ〜その名前を出した時点で、もう使えないじゃないですか。(笑)

矢部 松井雅美さんもいらっしゃいましたね。

※松井雅美さん インテリアデザイナーにして空間プロデューサー。当時最もお洒落だった東京湾沿いに数々のクラブやレストランをつくり出した。テレビ番組『11PM』では、自身が手がけた空間を語るとともに、ナイトシーンの最先端を解説していた。

四方 松井、まだ元気で生きてるよ。

鎌田 孝信さんもやっていましたよね。

※孝信さん ファッションデザイナーの佐藤孝信さん。自身のブランド“アーストン・ボラージュ”で、近未来的なスタイルを創造していた。世界的なジャズトランぺッター、マイルス・デイビスとの交流は深く、多くの衣装をデザイン。

四方 うん、孝信もやっとカムバックしたな。

鎌田 あのひと、デザイナーのなかで一番いい人でした。

山下 四方さんも、遊び場をプロデュースしたりしてたんですか?

四方 あったけれども、インテリアをできるわけじゃないし。要するに、名前を貸せみたいなものはあったよな。

山下 でも、今みたいに携帯電話がない時代じゃないですか。皆さん、自宅の電話で連絡をとっているのに、よくいろいろ出会えたり、遊んでたんですか? 不思議でしょうがないんですよ。

鎌田 何でですかね?

矢部 集まる場所がいろいろ決まっていて、そこに一緒に集まる瞬間があったということじゃないですかね。

四方 一等最初は、例えばオープンカフェみたいなのは、原宿のカフェ・ド・ロペがそうだったのよ。つくった当時はね、保健所からにらまれていて。

※カフェ・ド・ロぺ 表参道にあったカフェ。現在の「モントーク」の前身である。

山下 ああ、オープンがだめということなんですね。

四方 キッチンはこうしろみたいな、それをだましでやって、当時、一番流行ってたけどさ。でも、次にオープンキッチンをやったのは、意外とね、フェイスビルの杉本がやっていたバスタ・パスタって店なんですよ。

※フェイスビルの杉本 原宿フェイスビルのインテリアを手がけた空間デザイナーの杉本貴志さん。デザイン事務所「スーパーポテト」を主宰し、バーの「春秋」など、石と鉄板を素材に使った重厚なインテリアが、大人の男たちの琴線に触れた。
※バスタ・パスタ フェイスビルの地下に構えた、オープンキッチンのイタリアン。後にヒットしたテレビ番組『料理の鉄人』の舞台セットは、ここがイメージの源泉だった。多くの優秀なイタリアン・シェフを輩出した、最も洒落て、美味しかった店だ。

鎌田 おいしかったですよね。

四方 あれも、かなり保健所ともめたよね。今は当たり前なんだけれども、まず手を洗う場所とか、食品の仕切りとか。今は、もう当たり前だよ。そこに戻ってきてやっていたのがヒロって。

矢部 はい、山田宏巳さんですね。

※山田宏巳「バスタ・パスタ」のシェフを務めた、“江戸前イタリアン”の元祖。「バスタ・パスタ」を離れた後、下北沢の「ポポラーレ」で人気を博し、青山にリストランテ「HiRo」をオープン。日本におけるイタリア料理界のトップシェフとなる。

四方 あと東風という中華料理屋が六本木にあったけど、これは結構おもしろかった。さっきのバスタ・パスタとか、それからレッドシューズとか。今のはしりのおもしろさというのは、そこからスタートしているよね。みんななぜか死んじゃったんだよね。(・・・以下危険すぎる話が続くため大幅に省略!)

※東風 1979年開店の広東料理をベースした本格的中華料理店。無国籍料理のはしりでもある。テレ朝通りに構えていたことから、テレビ、芸能関係者のたまり場となった。

日本のイタリアンは、この時代に進化した

矢部 四方さんにとって、キャンティはあまりなじみなかったですか。

四方 なじみ、あんまりなかったな。よくタケ先生とか、加藤さんとか、みんなに連れていってもらって、ごちそうになったけれども、当時、やっぱり圧倒的にうまいと思ったよ。俺、まだまだイタリアに行ったことない時代だから、イタ飯ってうまいなと思ったね。

鎌田 やっぱりその当時も、すっごい高かったんですか?

四方 高い。でも、払ったことないから(笑)。

鎌田 今も高い。

矢部 変わらないですよね。

山下 今は、日本でも現地の味に近いものが食べられますけれども、80年代のイタリアンというのはどんな感じだったんですかね。

鎌田 やっぱりバスタ・パスタですよね。

矢部 もう群を抜いていましたよね、バスタ・パスタは。

四方 バスタ・パスタはヌーベルイタリアンだけれども、クラシコイタリアンのアントニオとかさ。

※アントニオ 今も南青山にたたずむイタリア料理店の最古参。懐かしいイタリアンを食べるならここだ。

鎌田 どこかのアパレルが、一時、買いましたよね、青山のサバティーニ

※サバティーニ ローマンスタイルを色濃く反映したイタリア料理店。銀座ソニービルにあったサバティーニは姉妹店だった。

四方 ああ、ミヨシチェーンだ。パブ・カーディナルをやっているところ。それから、恵比寿にも1店あったんだよ。コルシカ。まだあると思うんだけど。こてーっとした味でさ。

※コルシカ 恵比寿で今も営業を続ける家庭的で濃厚な料理を提供する。昔ながらのファンが通い詰める。

鎌田 カプリチョーザがイタリアンと呼ばれてた時代(笑)。

四方 あと、コロネットも一時期、一口坂でイタ飯屋をやったりしたんだよな。

※コロネット 1954年創業の日本を代表する、ファッションを中心とした輸入商社。当時はコロネット商会という社名だった。“ジバンシー”“ミラ ショーン”などをいち早く日本に紹介した。

鎌田 イタリアブームは、多分、あれですよ、ドンチッチョの石川の、ラ・ベンジーナって星条旗通りでやったじゃないですか。あれからぶわーっと店が増えたという実感がありますね。

※ドンチッチョの石川 イタリア料理店「ドンチッチョ」のオーナーシェフ。イタリアのなかでも、シチリアを前面に打ち出した地方色豊かな料理で、2006年のオープンと同時に大人気となる。鎌田さんとは、30年を超える仲である。
※ラ・ベンジーナ 1990年代、星条旗通りに構えたイタリアン。フォトグラファーの篠山紀信さんが常連だった。店の前にちょっとしたテラス席があり、夜ごと歓喜の声に満ちていた。南イタリアを中心にした魚介料理が絶品だった。

矢部 広がりましたよね。だから、その前のイル・ボッカローネ

※イル・ボッカローネ 1980年代「バスタ・パスタ」がイタ飯ブームの口火を切った後、いよいよ本格的なイタリア料理を浸透させた歴史的な店である。今も創業当時と変わらずに、恵比寿の地に構える。大きなパルミジャーノ・レッジャーノをくり抜いたところに、出来立てのリゾットを入れ余熱でチーズを絡めたひと皿は、同店のスぺシャリティであった。

鎌田 あと、アルファ・キュービックがやっていたイタリアンがありましたよね。えらい高いところ。

矢部 フロム・ファーストの地下じゃないですか。エル・トゥーラ

※エル・トゥーラ フロム・ファーストビルの地下1にあったイタリアンの名店。経営はアパレル会社のアルファー・キュービック。イタリアの3つ星レストランで修業し、シェフを務めた萩原雅彦さんの数々の料理は、別格の美味しさだった。

四方 あそこにビギがやっている、レッド・ポワゾンか何かって、フランス料理もあったよな。

山下 アパレルがご飯屋さんもやっていたんですね、そのころは。

矢部 うん、ビギグループは結構積極的にやっていましたね。

鎌田 本物の絵が飾ってあるんですよね。

山下 へえーっ。

鎌田 レストランなのに、これ、本物? みたいな。

四方 俺、イタ飯ってさ、みんないい金を取るけど、イタ飯の材料って安いんだよね。もうかると思うね。

矢部 ピザはもうかりますよね。

鎌田 僕もやってました(笑)。

山下 そうなんですか。

鎌田 フィレンツェで当時、クラシコのメンバーがよく集まっていたイ・バンビーノって知らないですか?

※イ・バンビーノ フィレンツェのトラットリア。典型的なローカルな味を楽しませる。食通の大人が好む名店だった。

矢部 聞いたことあります。

鎌田 あれの日本店、僕がやっていたんですよ。

矢部 えーっ!? そうだったんですか?

鎌田 で、ステファノ・リッチが影のスポンサーだったという。

※ステファノ・リッチ ネクタイの販売から始め、今ではトータル・ルックで煌びやかなメンズファッションを提案するブランド“ステファノ リッチ”のオーナー。クラシコイタリア協会発足に尽力した、フィレンツェの名士でもある。

矢部 へえーっ。いいなあ。

鎌田 彼は●●●●だったんですよ(これも危険なので省略)。

矢部 懐かしい話がまたまた。

四方 今、海外ブランドがレストランをつくるのが流行ってるじゃん、俺、酔っぱらって行くけど、うまいと思ったこと一回もないんだけどさ。

矢部 もうカット、カット。(笑)

四方 コーヒー1杯で千いくらして、なに考えてんだろう、こいつらみたいな。

鎌田 イタ飯を食べた後は、芝浦のゴールドとか、インクスティックですよね。あの辺で大騒ぎしていた。

※芝浦のゴールド 東京のクラブシーンのなかでも、店の前に大行列をつくった圧倒的人気のクラブ。最新のハウスミュージックで踊るなら、「ゴールド」は欠かせなかった。倉庫を利用した大空間で遊び人たちを魅了した。
※インクスティック 正式には「インクスティック芝浦ファクトリー」。インテリアデザイナーの松井雅美氏が空間プロデュースを担当し、当時最も盛り上がっていたライブハウスのひとつ。

山下 ご飯はイタリアンで、遊びはニューヨークって感じですね。

鎌田 そんな感じじゃないですか。

山下 ベイエリアというのも、今とはちょっと違ったムードなわけですよね。

鎌田 何にもなかったですよね。

矢部 何もないよね。だから、ゴールドがやっぱり先駆けでしたよね。

鎌田 やっぱりお風呂があって、あれはもうすごかったですよね。

矢部 画期的でしたね。YOSHIWARAっていう名前でしたね。

※YOSHIWARA 「ゴールド」の最上階に、なんと風呂を設置。夜な夜な、怪しい業界人が密かに、いや派手にこの場を仕切っていた。

鎌田 そう、YOSHIWARA。あの連中もみんな・・・(ここも以下省略)。

山下 ・・・皆さん、破滅的な生き方をされたわけですね。

鎌田 破滅的な人、多いですよ。大体、レッドシューズ出身ですよね。

山下 当時はファッションに関わる人というのは、みんな不良だったんですかね?

鎌田 でも、そういうのに憧れた時代じゃないですかね。

山下 そうですね。

鎌田 僕らは60年代、70年代にすごく嫉妬しながら生きてきたんですよ。あの時代ってほんとに楽しかったんだろうなと思いながら、80年代から90年代の洋服屋をやっていたので。やっぱり今でも憧れはあの時代。今はちょっとつまらないとは思います。

矢部 そうですよね。


パルコ、丸井を制するものは時代を制す!

矢部 時代的には古くなってしまうんですけれども、チェッカーズって今にして思えばすごいファッショニスタだったんじゃないかなと思うときがあるんですよね。

四方 あれ、九州から出てきたときはね、ジーンズか、革ジャンみたいな、そっちのキャロル系だったんだよ。なんだけど、東京へ来たときに、あれ、秋山だと思うんだ。

矢部 スコブルの秋山さんですね。

※スコブルの秋山さん 商品からタレントまで、あらゆる企画制作を手がけるスコブルコンプレックス會社を主宰し、編集者、放送作家、プロデューサーなどもこなした多才な秋山道男さんのこと。周囲のクリエーターから惜しまれながら、2018年鬼籍に入る。

四方 あいつがそれじゃだめだと、当時のロンドンっぽいチェックを着せて売ったんじゃないかな。

四方 本人たちは、すごい嫌がったらしいいけどね。

山下 80年代前半はロンドンの時代というものもあったわけですよね。パンクとか、そういうカルチャーがあったので。

鎌田 そうですね。アルマーニと同時にポール・スミスも出てきましたしね。僕、3年くらいいましたから。当時はインターナショナルギャラリービームスで扱っていました。青山にプレスルームとお店がちょっとありましたけれど、最初は全然売れていませんでしたね。それを丸井などの商業施設で戦略的に展開することで、サラリーマンに圧倒的に受けたんですよ。

四方 だから、丸井、それからパルコの時代だったね。

矢部 そうですね、うん。だから、西武系が強かったですよね。

四方 ほとんどのブランドは西武が絡んでいるでしょ。エルメスしかり。当時のパリオフィスなんて、ものすごい広いところで3〜40人いたんじゃないかな?

矢部 そうですよね。糸井重里さんが「不思議、大好き。」とか「おいしい生活。」とかのコピーをつくったり、もう全盛期でしたね。

四方 石岡瑛子がパルコの宣伝でものすごい金を使って広告をつくってたな。文化的なイベントも彼らは結構熱心にやっていたしね。

※石瑛子 資生堂でグラフィックデザイナー&アートディレクターを務めた後、1970年に石岡瑛子デザイン室を設立。パルコや角川書店などの広告を手がける。2008年、北京オリンピックで、日本選手の衣装をデザインした。

鎌田 アルマーニとか、この辺の新進インポートブランドって、クワトロ・バイ・パルコですごく熱心にやっていた時代があるんですよね。あまり受けなかったですけど。結局みんなバルーとか安いコピーブランドを買っちゃうんですよね。

※クワトロ・バイ・パルコ 渋谷パルコ・パート1~パート3が建ち並ぶ、公園通りとは別のエリアにオープンしたのが同店だ。“ジョルジオ アルマーニ”をはじめ、人気のインポートブランドを集めた豊富な品ぞろえが圧巻だった。最上階にはライブハウスがあった。
※バルー 日本のDCブランド。メンズブランド“スクープ マン”を手がける、株式会社スクープがリリースしたのが、バルーである。

座談会出席者

四方義朗さん
ファッションプロデューサー
DCブランド全盛期の当時、ファッションショーの演出を総なめにした、業界人のトップにしてキザに生きた男。持ち前の話術で、テレビ番組にも多数出演。酒とレディーは毎晩欠かせなかった。
鎌田一生さん
ミスターフェニーチェ、オーナー
東京に進出した商社、ライカ海外事業部でヴェリーに勤務。ファッション業界、クリエーターの先輩から、服の着こなしや夜遊びまでを教わり実践した。ファッションを熱く語る粋人である。
山下英介
メンズプレシャス クリエイティブディレクター
80年代は『少年ジャンプ』とファミコンに夢中な小学生だった。しかし今、熱き時代の余波を受け、アルマーニをはじめとする往時のファッションを探求。情熱的なものづくりをこよなく愛す。
矢部克已・司会
メンズプレシャス エグゼクティブファッションエディター
ファッションエディターに成りたての80年代後半。インポートブランドのファッション撮影が毎日続いていたこともあり、イタリアブランドに心酔。挙句の果てに、イタリア4都市在住を経験する。

SPECIAL THANKS!mr.fenice

本対談に出席していただいた鎌田一生さんが手がけるクロージングサロン。自身のブランドmr.feniceをはじめ、アット ヴァンヌッチ、マリーニ、アレッサンドロ グエラなど、本当にいいものを知り尽くした「大人の不良」のためのワードローブを取り揃えている。顧客には有名人も多い。

<出典>
メンズプレシャス夏号腕時計は「ロマン」「スタイル」だ!
【内容紹介】腕時計は「ロマン」「スタイル」だ!/男の装いに美しい時計が必要な7つの理由/教えて! マーク・チョウの「時計術」/名品時計録2019/「クラシコ80’s 」がやってきた!
2019年6月6日発売 ¥1,200(税込)
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名品の魅力を伝える「モノ語りマガジン」を手がける編集者集団です。メンズ・ラグジュアリーのモノ・コト・知識情報、服装のHow toや選ぶべきクルマ、味わうべき美食などの情報を提供します。
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