「あなたにとって80’sって、どんな時代でしたか?」。年間数百本にも及ぶファッションショーをプロデュースしていた、四方義朗さん。ファッションと夜遊びに夢中だった不良青年、鎌田一生さん。「流行通信HOMME」のエディターとしてトレンドを発信していた、矢部克已。そして「少年ジャンプ」とファミコンに夢中だった小学生、山下英介……。第一回目となる今回は、それぞれの80’s観を語ってもらった。80’s の寵児と呼ばれた男、四方義朗さんのトークが止まらない!

座談会出席者

四方義朗さん
ファッションプロデューサー
DCブランド全盛期の当時、ファッションショーの演出を総なめにした、業界人のトップにしてキザに生きた男。持ち前の話術で、テレビ番組にも多数出演。酒とレディーは毎晩欠かせなかった。
鎌田一生さん
ミスターフェニーチェ、オーナー
東京に進出した商社、ライカ海外事業部でヴェリーに勤務。ファッション業界、クリエーターの先輩から、服の着こなしや夜遊びまでを教わり実践した。ファッションを熱く語る粋人である。
山下英介
メンズプレシャス クリエイティブディレクター
80年代は『少年ジャンプ』とファミコンに夢中な小学生だった。しかし今、熱き時代の余波を受け、アルマーニをはじめとする往時のファッションを探求。情熱的なものづくりをこよなく愛す。
矢部克已・司会
メンズプレシャス エグゼクティブファッションエディター
ファッションエディターに成りたての80年代後半。インポートブランドのファッション撮影が毎日続いていたこともあり、イタリアブランドに心酔。挙句の果てに、イタリア4都市在住を経験する。

70年代から80年代へ。四方義朗、大いに語る!

80年代を語らせたら、四方義朗さんの右に出る者はない。だってこの時代の気分をつくりあげた張本人なんだから!
80年代を語らせたら、四方義朗さんの右に出る者はない。だってこの時代の気分をつくりあげた張本人なんだから!

山下 70’sから80’sというのは、明確に区切りってあるんですかね?

四方 70’sまでは、外国が「舶来」という感じよ。

山下 ええ、まだ「カルティエ」を「カルチェ」と呼んでた時代ですね。

四方 それが80’sに入ったら、もう舶来というよりもブランドという発想よね。例えば、海外の有名ブランドって、サンモトヤマなんだよ、全部が。それからは、アルマーニやエルメスみたいに独自の展開をしていくんだけれど、それまでは一緒くた。大概、ブラント好きな人は、サンモトヤマにお世話になっているんじゃないかな・・・。

※サンモトヤマ 1955年に設立した高級輸入用品を扱う銀座の名店。創業者は「チョーさん」として親しまれた、茂登山長市郎さん。戦後の闇市を生き抜き、グッチやエトロなどをいち早く日本に輸入した。

矢部 よろしくお願いします。何かもう、早速、始まっている話がすごくおもしろいんですけれども(笑)、まさに1980年代のファッションとスタイルを語り明かすということで、あの当時の気分を回想するようなお話をいっぱい聞きたいと思っていまます。まず80年代と言われたときに、四方さんが真っ先にイメージするのはどんなものなんでしょうか?

四方 70年代から話さなきゃしようがないけれども、外国のものは「舶来品」という発想なのよ。俺にとってはね。例えば、外国の時計とか、外国の服とかというのは、要するに舶来品で、そうね、僕が記憶にあるのは、今はもう当たり前なエルメスとか、グッチとか、エトロとか、全部含めてブランドって、大体、サンモトヤマさんが扱っていたのよ。日本で最初の高級セレクトショップだろうな。

矢部 そうですね。はい。

四方 それと、ちょっと種類は違うけれども、コロネットさんの桃田さんみたいに、要するに進んでいる人が向こうで買いつけてきて、仲間うちで販売するような形から始まってきた。70年代は、とりあえず日本のものが最優先だったのよ。だから、DCブーム・・・今はもう死語かもしれないけれども、デザイナー&キャラクターブランドと指すのは、ほとんどは日本人のブランドだよね。

※コロネットさんの桃田さん 「東の茂登山さん」に対し、「西の桃田さん」呼ばれた、日本を代表するインポーターである桃田有造(ゆうぞう)さん。コロネット商会を1954年に創業。ファッション評論家の出石尚三さんが著した『われ、ファッション・ブランドを愛す/桃田有造の痛快一代記』は、ファッションに携わる者の必読書。

矢部 そうですね。うん。

四方 ビギ・ニコルの時代と言われているけれども、要するにデザイナーの名前をつければいいわけよ。例えば、俺だったら「ヨシロウ・ヨモ」とつけたらブランドになってしまうみたいに。言い方は悪いけれども、猫もしゃくしも。マンションブランドといって、マンションの一室で、友達を集めてコツコツ縫い出したら、そっちのほうが海外のブランドより人気が出てきちゃったわけよね。そのきっかけをつくったのが、ある意味、原宿の「ラフォーレ原宿」。これができた当時は中途半端なヨーロッパのものを入れていたのよ。それがマーケットと合わなかったんだけれど、新しい館長があのグループから来て、原宿のマンションメーカーを片っ端から回って、金がなかったら俺が何とかするからと、全部入れたわけよ。それから火がついて、原宿があんなになっちゃったのよ。

矢部 おもしろいですね。

四方 それが70年代なのよ。だから、DCブームというのは、村松周作とか菊池武夫とかが、向こうで見たり、そういうものから発生した。例えば、「ビギ」って「ビバ」から出ているんだよ。

※「ビバ」ロンドン、ケンジントン・ハイストリートにあった伝説的なブティック。デザイナー、バーバラ・フラニッキさんが1964年にオープン。世界最先端のブティックとして名高く、菊池武夫さんも大いにインスパイアされた。アールヌーボー様式を取り入れたクラシックでエレガントな空間、当時のヒッピーカルチャーとは対極にあったモダンなファッションが一世を風靡した。

矢部 そうですよね。うん。

四方 袋までそっくりだったんだよね。

鎌田 有名な話ですよね。

四方 うん、有名な話。DCブームって自然発生的に、着たいものがないから自分たちでつくるということで、それを探していたやつがぶわっと集まったわけよね。集まったというか、盛り上がっていたわけよ。だから、DCブームというのは、あくまでもうシビルウォーだよな。

矢部 その当時、四方さんは、お仕事はもうファッションプロデューサーだったんですか? まだフルハウスにいたんですか?

※フルハウス テレビ制作会社。四方さんの同僚に作家の影山民夫さんがいた。

四方 俺が東京に出てきたのは、フォークソングをやっていた頃に、加藤和彦から誘われて。もともと関西ですから。「関西は谷村新司に任せておけばいい(笑)、おまえのセンスは東京だから、東京へ来い」と言うので東京へ来て、そこで知り合った、つのだ☆ひろがつくったバンドでベースをやって。で、矢沢永吉さんとか、高中正義とか知り合ったんだけど、俺、絶対勝てないわと思って。そうしたら、当時からテレビの仕事はどうかという話があったので、そっちへ行ったら、今度は、おまえテレビやってるんだったら、ファッションショーできるだろ?ってファッションショーをやり出したら、それが当たっちゃって。

※加藤和彦 1960年代後半、フォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」でデビュー。トノバンという愛称でも呼ばれた、音楽プロデューサーであり歌手、作曲家として大活躍。ファッションに関する一家言は多くの洒落者たちに影響を与え、『エレガンスの流儀』などの著書もある。“バルバス”を愛し、“ファーラン&ハービー”でビスポークを楽しんだ。

矢部 ああ、そういう流れだったんですね。へえーっ。

四方 いや、反面教師なのよ。俺、フルハウスでイベントの会社をやっているころ、ほかの人のファッションショーにつき合ったときに、こんなくだらないことをやっていたらどうしようもないなと思ったわけ。例えば、当時はトリコロールというのがショーのメーンで、白、紺、赤の洋服が出てきたら、3人そろってポーズをとって、3人で歩いて、次が2・1で歩いて、帽子を取ってみたいな、そんな感じなのよ。こんなことやっているの格好悪くない? みたいに思って。

鎌田 おもしろい。

矢部 へえーっ。

四方 みたいにやっているときに、俺、バンドをやっていたから、当時の外国の格好いい音楽だったり、環境音楽だったり、いろいろ知ってるじゃん。最初から最後までジョン・レノンでいくとか、そういうテーマ出しをやっていたら、ものすごくウケちゃったわけよね。で、会場も、ホテルとか何かやめて、寺田倉庫さんに倉庫を借りてやったりとかさ。それを見ていたのが三宅一生さんで、電話がすぐかかってきて、次の週には行ったこともないパリに遠征してたんだよね。だから、おもしろかったよ。

矢部 へえーっ。おもしろいですね、ほんと。

鎌田 すごいですね。

矢部 その後に、いわゆる代々木の体育館じゃないですけれども、テント、どーんと出るじゃないですか。

※テント 1980年代、東京コレクション華やかりし頃、原宿・代々木体育館の横に立った建物。テント状の建物のため、エディターやジャーナリスト、デザイナーたちの間でテントと呼んだ。サウスとノースのふたつのテントがあり、賑々しく新作が発表された。

四方 僕はね、その前なんですよ。

矢部 その前なんですね。

四方 その前に、菊池武夫さんとか、山本寛斎さんとか何か、TD6というのがあったんですよ。これは、トップデザイナーじゃなくて、東京デザイナー6という。

※TD6 東京コレクションの源流は、1974年に立ち上げたTD6のショーとされる。そのTD6とは、コシノジュンコさん、金子功さん、松田光弘さんの「花の9期生」となる文化服装学院卒業生、それから菊池武夫さん、花井幸子さん、山本寛斎さんの計6名のデザイナーである。

矢部 うん、ありましたね。

四方 コシノ・ジュンコさんとか。その辺から手伝い出して、そこが派生して、6人だけじゃなくて、もっと若い人も入れてやろうというときに、東京コレクションというのをつくったのかな。その初代事務局を一時あずからせてもらったわけよ。

矢部 四方さんが?

四方 うん。

矢部 へえーっ。当時、ワンシーズンに何本くらいショーをやっていたんですか?

四方 いやあ……。

矢部 ほとんど四方さんじゃないですか、サルじゃないですか。

※サル 正式名は、株式会社サル・インターナショナル。四方さんが率いた企画制作会社で、ファッションショーの演出を手がけた。後に多くのショー演出家たちが、サルから巣立っていった。

四方 そうだね。当時はコレクションシーズンに加えて、デパートでも顧客向けに同じショーをやるから、それこそ100、200、300単位だったよね。覚えてない。一日3本ぐらいやっていたよね。

鎌田 それだけブランドがあったということ。

矢部 そうですよね。

四方 そうそうそう。だって、「アンアン」が一時期、それこそラフォーレ原宿と組んで、アンアンコレクションというのをやったら、10日か2週間、全部ブランドを変えて、全部いっぱいだったもの。

矢部 へえーっ、すごいですね。

山下 当時は、普通の人がお金を払ってでも、ファッションショーを見たかったということを聞きますね。

四方 そうそう。俺は、さすがにそれはやらなかったけれども、ファッションショーだけではなくて、ファッション誌もものすごく増えてきたのよ。

矢部 そうですよね。

四方 うん。特にメンズ誌。もともとメンズ雑誌なんて、あまりなかったのよ。確かに昔はあったよ、服は。例えば、VANとか、JUNとか。それから、皆さん、ご存じないかもしれないけれども、エドワーズとか、ジャズとか、結構凝った人とか、おもしろい人が、それなりの服はつくっていたのよ。そのあと菊池武夫のメンズビギとかが断トツに売れ出して、それにあわせてムッシュニコルとか、いろいろなのが出てきて、まずメンズマーケットが大きくなったのよ。

※エドワーズ “ヴァン ジャケット”に飽き足らない、ヨーロッパ志向の大人に支持されたブランド。広告ヴィジュアルを描いたイラストレーターが「ぺロ」こと、伊坂(いさか)芳(よし)太良(たろう)さん。あまりにも強烈なイメージの絵で、服を凌駕したとの説もあり。

矢部 なるほどね。

四方 まず、70年代に何が始まったかというのは、女性の憧れがモデルとか女優からスタイリストへ変わったわけよ。特に「アンアン」という雑誌で、有名スタイリスト、原由美子とか、安部みちるとか。

※原由美子 日本を代表するスタイリスト。1970年雑誌『アンアン』創刊に参画。以降は、マガジンハウス系の雑誌で、多くのファッションページを手がける。『スタイリストの原ですが』をはじめ著書多数。
※安部みちる 出身は、雑誌『流行通信』編集部。ファッションエディターとして活躍後、スタイリストとして独立。時代の先をゆくスタイリングは、多くの俳優やミュージシャンにも愛された。

矢部 懐かしいな。

四方 でしょ? デヴィッド・ボウイを担当していた高橋靖子さんなんて最たるものだよね。例えば、当時、カフェなんかなかったけれども、ちょっとそれっぽいところに籐の椅子と、それからカマキリみたいな自転車にかごをつけて、どこかで買ってきたフランスパンを突っ込んで写真を撮るとかさ(笑)。部屋か何かでカフェオレって、丼みたいなカップにさ。あれ飲みづらいんだよ、持つところがなくて(笑)。それでこうやるのが、ブランチとかいってさ。そういう時代になってきて、女の子がスタイリストにみんな憧れて、気分がスタイリストになって、コーディネートがうまいのが格好いいみたいになっていったわけよ、そうこうしているうちに、彼氏とか、ボーイフレンド、旦那を見たら、ダサいということに気づいたわけね。それで、あんた、ちょっと何とかしなさいよというので、男が頑張っておしゃれが始まったのが「メンズノンノ」だったり。それまで「メンクラ」ぐらいしかなかった。

※高橋靖子 通称「ヤッコさん」。日本のスタイリストの草分け的存在。1970年代、ファッションデザイナー山本寛斎さんのロンドンでのショーに尽力。デビッド・ボウイとのフォトセッションが大成功。自伝的エッセイ『表参道のヤッコさん』に詳しい。

矢部 そうですよね。うん、うん。

四方 ファッション・イコール・アイビーなんだよ。

鎌田 そうですね。

四方 見事に、そんな服、今どきつくっているの!? みたいなさ、あきれ返るみたいなさ。ほんとに。

矢部 四方さん、そろそろ次に行っていいですか?(笑)

四方 ごめん、ごめん(笑)


不良少年、ショーケンで目覚める!

不良性を秘めたクラシックを表現できる日本で唯一の男、鎌田一生さん。そのバックボーンには80年代がある!
不良性を秘めたクラシックを表現できる日本で唯一の男、鎌田一生さん。そのバックボーンには80年代がある!

矢部 鎌田さんの80年代のイメージを教えてください。

鎌田 僕にとっての80年代って、89年のとき26、7歳ぐらいなので。

四方 いいね〜。

鎌田 やっぱりほぼDCなんですよね。中学校1年生ぐらいのときはアイビーですよ。

四方 どっちだったの? VAN?

鎌田 VANですね。あと、マクレガーとか、そういう時代で。

四方 ああ。

鎌田 で、夏休み、ある日「傷だらけの天使」とか、ああいうのを見て、あれってJUNの、いわゆるヨーロピアンで、それに影響されて夏休みが終わったらいきなり髪を伸ばし始めて、バギーパンツをはき始めたんですよね。

※ヨーロピアン アメリカのアイビー・リーガースのファッションに対して、カウンターカルチャーとなったのが、パリを中心としたヨーロピアンなテイスト。そのスタイルを牽引したブランドであり会社がJUNやエドワーズである。

四方 ビーコック?

鎌田 はい、格好いいなと。それでアイビーをやめて、高校に行った頃にはビギやDCブランドのいわゆるバギートップとか、そういうのが出始めて。で、中学校3年生の修学旅行のときに、札幌から表参道のビギに服を買いに行ったのを覚えていますね。だから僕にとっての80年代の始まりはDCの始まりというか。その当時、やっぱり皆さん、先輩たちは輝いていたので、僕もすぐ不良をやっちゃったので(笑)、洋服屋になりたいと思ったんですね。当時、洋服屋はほんとに格好いい存在だったので、それで東京に出てきたんですね。そのときに、ただで東京へ行かせてやるよと言った先輩がマルセルだったんですね。

※マルセル セゾングループ系のセレクトショップ。アイビーファッションがベースのセレクトショップ「三峰」に対して、デザイナーズ系やヨーロピアンのよりクリエイティブなブランドを取りそろえた新宿が本店のショップ。“メンズビギ”を初めて扱うほか、フレグランスなども展開。“アラミス”など、日本未上陸の海外ブランドも販売した。

四方 ああ、そう。

鎌田 はい。

矢部 マルセルってなんですか?

鎌田 新宿にあって、それこそギャルソン、ワイズ、ビギ、ニコル、小西さんのフィッチェとか全部やっていた、昔のセレクトショップ。

※小西さんのフィッチェ 今ではファッションコメンテーターとして知られる「ドン小西」こと、小西良幸さんがデザイナーとして立ち上げたブランドが“フィッチェ”。色鮮やかなデザインが特徴的で、なかでもニットは格段の完成度を誇っていた。

山下 なるほど。

鎌田 アラミスの化粧品を一番最初に売ったりとか。そこに就職して来たわけです。その当時、ビギが買えない人はチェルシーのバギースーツとか、タイロッケンコートを着て。で、そのあとピテカンができたんです。

※チェルシー オリジナルブランドであり、後に欧州ブランドも輸入する日本の商社。萩原健一さん主演のテレビドラマ『傷だらけの天使』に登場するようなバギーパンツなどを、手ごろな価格で販売した。

矢部 ピテカントロプス

※ピテカントロプス 原宿のクラブ&バーで、正式には「ピテカントロプス・エレクトス」。代表を務めたのは選曲家の桑原茂一(もいち)さん。坂本龍一さんをはじめ、デヴィッド・バーンなど海外からも多くのアーティストがライブに参加。ファッション業界、音楽業界、芸能関係者で毎晩賑わった。

鎌田 そこに遊びに行き始めたんですね。その当時、僕のまわりには前田誠さんとか、大口広司さんとか、ほんと悪い先輩ばっかりだったので(笑)。その当時の遊び場というと、レッドシューズモンクベリー、ピテカン、あとトゥールズバーとか。そのちょっと後にピカソかな。遊びに行くとVIPルームに先輩たちがいて、あの女、ちょっとナンパしてこいとか、もういろいろな時代があって。そのときは、ほんとにもうDC一辺倒でした。で、先輩たちにビギの昔の話とか、いろいろな話を聞いていると、そのルーツにはやっぱりサンローランとか、そういうものがあったんだというのを知って、インポートに興味を持ち始めるんですね。

※前田誠 日本のブランド“バーグマン”の代表であり、デザイナーを務めた。DCブランドのなかでも、ひと際こだわりのあるものづくりで、多くのエディターやクリエイターから親しまれた。
※大口広司 ザ・テンプターズのドラマー。テレビドラマ『時間ですよ』『前略おふくろ様』などに出演し、俳優としても成功した。
※レッドシューズ 1981年、西麻布にオープンし、‘カフェバーブームのはしりとなった伝説的な店。95年に閉店。
※モンクベリー「ピテカントロプス」と同様に、原宿・明治通り沿いに活気があった頃に誕生したクラブ。
※トゥールズバー「レッドシューズ」と並んで、西麻布の2大クラブといわれた。RIKAKOさんなど、芸能界の常連が多かった。
※ピカソ 西麻布の交差点から六本木に向う途中のビルの地下にあった。後に「イエロー」や「ケーブ」なども開いたプロデューサー、村田大造(だいぞう)さんが21歳のときに立ち上げた伝説的なクラブである。

矢部 なるほど、なるほど。

鎌田 そこから、やっぱりアルマーニですよね。僕が26、7歳ぐらいのときにライカが東京に出てきて、海外事業部をつくるというので、ヴェリーに入ったんですよね。

※ライカ 関西に本社を置く、ファッションを中心とした商社。海外事業部を構えた1980~1990年代に掛けて、ヴェリー、ビリドゥーエ、ケンゾー、カステル・バジャックなど話題のブランドを展開。
※ヴェリー デザイナーはシチリア出身のレオナルド・ブルゴニョーネさん。“ヴェリー・ウォモ”としてデビューしたが、後に“ヴェリー”に。隆々とした肩のラインに大きくスクエアなラペルのスーツは、“ジョルジオ アルマーニ”とはまた違うファンに愛された。映画『ゴッドファーザー PART3』の衣装を手がけた。

矢部 乃木坂のオキシービルですよね。懐かしいですよ。

鎌田 そうなんですよ。それで、コレツィオーネができて、そのころからクラブよりも、今度、遊び場はディスコ。マハラジャがばーんとできて。

※コレツィオーネ 建築家・安藤忠雄さんによるコンクリートの打ちっぱなしで表現した、青山にたたずむビル。正式名は「ラ・コレツィオーネ」。フロムファーストの対面にあり、当時“ヴェリー”のショップは、その1階2階に構えていた。
※マハラジャ 麻布十番の伝説的なディスコ。黒服と呼ばれるボーイが来場者の服装をチェックし、入場が許された。店の顔にならなければ入ることのできない個室のVIPルームは、ここから始まった。

四方 当時のディスコって、まともに金を払ったやつをあまり見たことないんだよな。

矢部 どう回っていたんですかね?

鎌田 そうですね(笑)。

四方 俺、自慢じゃないけど、ディスコに行って金を払ったこと一回もないんだよ。

矢部 いいですね。(笑)

四方 俺80年代の後半からね、毎晩、ドンペリ2本ぐらいあけてたんだよ。

矢部 僕も経験あります。当時、流行通信社にいたときに。全然、給料なんか安いわけじゃないですか。でも、毎晩のように飲んでいたんですよ。

四方 そうそう。

矢部 先輩、連れて行ってくれるし。誰が払っていたんだろう?

四方 俺、ファッションショーの演出家で、売れていて、雑誌に出まくっていたから、ミスターインビなのよ。顔を見ただけで、はい、こちらインビでというので、すぐVIPルーム直行なのよ。

鎌田 すごいですね。

矢部 ほーっ。すごいな、やっぱり四方さん。

四方 いやいや。

矢部 四方さんがやっていた番組で、「四方夜話」ってあったじゃないですか。

※「四方夜話」 日本テレビ系列の深夜枠で放送されたトーク番組。司会に四方義朗さん、パートナー役に南美希子(みきこ)アナウンサーが務めた。毎回、当時「カタカナ商売」と言われたクリエイターがゲストに迎えられた。なんともセクシーな四方さんの話術が光っていた。

四方 あった、あった。

矢部 あれ、僕、むちゃくちゃ好きだったんですけど。あれは、ちょっと前ですよね?

四方 前後しているな。あと、「いか天」の審査員というのもあった。

※「いか天」 新人ロックバンドを発掘するオーディション番組。正式名は、『三宅裕司のいかすバンド天国』。後に“BEGIN”“たま”“BLANKEY JET CITY”などが番組から旅立った。

山下 司会もやられていましたよね。

四方 司会者が休みのときに、「おまえ、司会やってみる?」「いいよ」ってやってさ(笑)。めちゃくちゃだったね。

矢部 じゃあ、そこから「四方夜話」に発展したんですか?

四方 俺、2、3本番組を持っていて、あまり記憶がないんだよ。

矢部 へえーっ。でも、あのころって、当時、活躍されていた業界の方、みんな出ていたじゃないですか。スタイリストの大久保さんとか、カメラマンの伊島薫さんだったり。

※スタイリストの大久保さん メンズファッションの先駆者的なスタイリストの大久保篤志(あつし)さん。2006年、自身のブランド“ザ スタイリスト ジャパン”を設立。長いキャリアを詰め込んだ服づくりは、スーツを中心に展開する。
※カメラマンの伊島薫さん 1980~90年代を駆け抜けたファッションフォトグラファー。小泉今日子さんをモデルにした死体シリーズの撮影にも挑戦し、話題を振りまいた。アイドルやグラドルを撮影の時には、アーティストネームとしてアリゾナ五郎を名乗った。

四方 それは、さっき言ったように、DCブームになったときに、まずファッションデザイナーがスターになったんだけれども、それからスタイリストとか、業界人というのが表に出だしたわけよ。例えば、テリー伊藤なんかそうだよね。

矢部 なるほどね。うん。おもしろいときですよ。

山下 おもしろいですね。うん。


ジャンプ少年、玉置浩二に衝撃を受ける

本対談では先輩たちの迫力に押されっぱなしの山下英介。狂乱の80’sを生き抜いた男たちは迫力が違うのだ!
本対談では先輩たちの迫力に押されっぱなしの山下英介。狂乱の80’sを生き抜いた男たちは迫力が違うのだ!

矢部 山下さん、何かないですか? 質問を含めて。

山下 僕は1976年生まれで、いわゆる80年代ファッションというのは、全くリアルタイムではないんですよね。「少年ジャンプ」とファミコンに夢中でした。僕にとっての80年代のイメージというのは、前半くらいまでは大人の格好が、例えば成田三樹夫さんみたいに、びしっとスーツを決めて、太いネクタイを締めている、そういうのが格好よかったような気がするんです。それがだんだん、84年、85年ぐらいになってくると、安全地帯の玉置さんが化粧をしてテレビに登場してくる。ブロンザーというやつですか? あれを塗ってアイシャドーみたいなのをしてテレビに出たときは、うわっ、こんな人がいるんだという衝撃を受けて。で、吉川さんがフラットサングラスをして出てきたりとか、肩が妙に広がったジャケットを着ていたり、大人の格好がものすごく変わってきているというのは、子供心にもすごく明らかにわかった。で、テレビを見ていると、四方さんみたいな業界人がなぜかテレビに出ている。この人は一体、何なんだろうと。スタイリストさんとか言われても、小学生だからわからないんですよね。四方さんというのは、一体どんな人?って。

矢部 怪しい感じの人が多かったよね、何か。

鎌田 そうですね。

山下 例えばバラエティー番組にコピーライターと名乗っている人が出てくるんですよね。この人は一体、何の仕事をしている人なんだろうと。そういうような、いろいろなものがごちゃ混ぜになっていて、今にして思うと、ちょっと特殊な時代だったんだなと思います。

SPECIAL THANKS!mr.fenice

本対談に出席していただいた鎌田一生さんが手がけるクロージングサロン。自身のブランドmr.feniceをはじめ、アット ヴァンヌッチ、マリーニ、アレッサンドロ グエラなど、本当にいいものを知り尽くした「大人の不良」のためのワードローブを取り揃えている。顧客には有名人も多い。

<出典>
メンズプレシャス夏号「腕時計は男のロマンだ!」
【内容紹介】腕時計は「ロマン」「スタイル」だ!/男の装いに美しい時計が必要な7つの理由/教えて! マーク・チョウの「時計術」/名品時計録2019/「クラシコ80’s 」がやってきた!
2019年6月6日発売 ¥1,200(税込)

今こそ、1980年代ファッションを語ろう!バックナンバー

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名品の魅力を伝える「モノ語りマガジン」を手がける編集者集団です。メンズ・ラグジュアリーのモノ・コト・知識情報、服装のHow toや選ぶべきクルマ、味わうべき美食などの情報を提供します。
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