カルチャーの目利きが、それぞれ独自の視点で専門分野を語る連載『Precious Culture』内のBookコラム。今月、歌人の穂村弘さんがおすすめする一冊は、プロ棋士・先崎学さんの原作で、漫画家・河井克夫さんによって漫画化された『うつ病九段』です。
「ぎりぎりに追い込まれた人の話が読みたくなるのはどうしてだろう?」――穂村さん
『うつ病九段』の九段とは将棋の段位のこと。本書の原作者であり病の当事者でもある先崎学氏が将棋のプロ棋士であることに由来するのだろう。本書にはうつ病の発症から進行そして治癒に向かうプロセスが生々しく描かれている。
うつがひどい時は世界がモノクロに見えているとか、回復に向かうと或る日とつぜん色が目に飛び込んでくるとか、お見舞いに来てくれた人から云われてもっとも嬉しかった言葉は「みんな待ってます」だとか、病院食を一度も残さなかったのに2ヶ月で16キロも痩せたとか、どん底から浮上する最初のサインの一つが「エロ動画が見たい」という気持ちだったとか。実際に体験しなければわからないエピソードの連続に目が吸い寄せられてしまう。
原作は未読だが、本書は漫画の形になっているからとても読みやすい。例えば、将棋を指すシーンでは、二人の棋士が刀を構えた武士の姿になっている。「やああああ」とか「王手!」とか叫びながら斬り合うのだ。それによって将棋のことがわからない私にも戦況がリアルに伝わってくる。
それにしても、ぎりぎりの状況に追い込まれた人の話を読みたくなるのはどうしてなんだろう。どこまでも続くはずの日常からとつぜん非日常の穴に落ちる時の感覚、そこから這い上がるきっかけ、なんとか復活しようともがく姿、周囲の人々との関わり……、普段はぼんやりしている「生きること」のすべてがくっきりと可視化されている。絶望と希望が混ざった味の濃さに痺れた。
※掲載した商品の価格は、すべて税抜きです。
- TEXT :
- 穂村 弘さん 歌人
- BY :
- 『Precious9月号』小学館、2020年
- WRITING :
- 穂村 弘
- EDIT :
- 宮田典子(HATSU)、喜多容子(Precious)