「あー、お腹減ったー」
ある日の明け方、編集部で伸びをしながら、口をついて出た言葉。聞きつけたエディターHさんが、すかさず
「じゃあ、築地にラーメン食べに行かない?」
その話、乗った!
飛びついた私を、15分ほどのドライブで彼女が連れて行ってくれた先が、場外商店街のラーメン屋さんでした。まだほの暗く、想像以上に冷えるなか、市場を訪れたのであろう男性や、近所の方であろう犬の散歩途中の女性たちと一緒に、空きっ腹に温かいラーメンをすする幸せ。私にとって人生で二度目の、思い出に残る築地ごはんでした。ちなみに前回は、遡ること20ウン年。大学生だったころ、ほのかに憧れていた大学院生に、同じく場外商店街のお寿司屋さんに誘われたときのことでした。院生ともなると、こんなところでお寿司を食べたり、お酒を飲んだりするんだ~と、彼への憧れも相まって、築地でのごはんは通な大人の選択としてインプットされたのです。ちなみに私はデートだと胸が高鳴っていたのですが、彼はどうだったのかな?
さて雑誌「Precious」ファッションディレクターの吉川が、本記事を書く決め手となったのが、この新旧二回の築地ごはんであったことはいうまでもありません。肌身で感じる市場の緊張感、そのなかで不思議と感じる温かい気配、その秘密はなんだろう? そこで早速、取材に訪れたのが築地市場内に約140軒の飲食店、物販店が建ち並ぶ「魚がし横丁」。まず目指したのは、前出Hさんが教えてくれた喫茶店「センリ軒」でした。
日本橋に魚河岸があった大正時代初頭に、ミルクホールとして誕生したという「センリ軒」。3代目のご主人である川島進一さんにお話をうかがいつつ、名物の『半熟玉子入りクリームシチュー』をいただくと、コクがあってなんとも懐かしい味。川島さん曰く、明け方から築地で働く方たちのために体が温まるものをと、昭和34年にお母様が考案されたものだそう。カウンターに鎮座するシルバーの容器はコーヒーアーンと呼ばれ、ドリップしたコーヒーを湯煎で保温しておくもの。沸かない程度に温めているから、いつでもまろやかなコーヒーがいただけます。驚くほどやわらかいカツサンドやシチューと一緒に、このコーヒー。心も体も温もるような、築地ごはんの新たな幸せを発見です。
市場外の鶏肉鴨肉卸業として明治40年創業の歴史を誇る「鳥藤(とりとう)」さん、次にその市場内のお店へ。店長の正野輝久さんおすすめメニューは、なんといっても親子丼。「鮮度が命の鶏肉を、毎日、親子丼に最も適した部位を選び、カットの仕方も変えて調理しています。白身で包み込むような火の入れ方で、お肉の水分も逃しません」。なるほどお肉はぷりっとジューシーで、旨みが詰まっています。一緒に出されるスープもまた、滋味があるのにさっぱり。専門店の強みを生かし鶏のさまざまな部位から強火で煮出したもので、白濁したスープは乳化によって口当たり抜群。実は親子丼の割り下もこのスープをもとにつくられているというから、美味しいのも納得の逸品なのです。
築地ごはんのおいしさと温もりとにすっかり魅了された吉川。築地の魅力をもっと知りたいと、「魚がし横丁」広報の伊藤嘉奈子さんを訪ねました。平成12年から広報を務める伊藤さんは、自身が「魚がし横丁」内に2軒の店舗を構える長靴専門店「伊藤ウロコ」の5代目。明治43年創業の老舗であり、明治時代の後半から、市場で働くプロフェッショナルのために、履きやすく、滑りにくく、疲れないオリジナルの長靴を販売しています。最近では伊藤さんの考案で女性に向けたショートタイプも登場し、天然ゴムを手張りしたやわらかい長靴は市場内外で信頼の一足。
「築地はプロが集まる市場です。店を構えるほうもプロなら、訪れるほうもプロ。だからこそいい加減なものは、出せない、つくれない」と伊藤さん。築地ごはんがおいしいのは、お客様も舌が肥えたプロフェッショナルだから。それだけにプロではない私たちが訪れる場合は、心構えをしておきたい。「郷に入っては郷に従えといいますが、市場には市場のルールがあります。市場で働くプロが主役の場所に“お邪魔する”という気持ちで、いらして頂けるとうれしいですね。基本的に商品に触れたり写真を撮ったり、値切る、大きいバッグをもってくるなども控えていただければと思います」。築地市場は、例えていうなら大きな会社のようなもの。「働く女性ならおわかりいただけると思うのですが、よその会社にずけずけと入らないのと同じなんです」。一方で専門家たちと接点がもてるのも、築地ならではの醍醐味。「何度も通っておなじみをつくり、知ったかぶりをせず知識を得ると、ますます楽しくなりますよ」
取材時にも、おなじみのお客様に「○○さん見えました~。いつもの××お願いします~」と、座るそばから、お好みのメニューがさっと現れる光景が見受けられました。築地で感じた緊張感は、ここがプロフェッショナルの仕事の現場だから。温もりが伝わってきたのは、プロの間に通い合う人情があるから。ハードボイルドな生き様を“強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない”などといいますが、築地は強く、心優しいプロが集う、ハードボイルドな街。だからこそ働くオンナにとって、このうえなく心地よい、温もりの街でもあるのです。
築地を訪れる前に、書籍や雑誌で予習したい
プロフェッショナルが集う街だけに、築地には独自のしきたりやルールがある。だからこそ、きちんと予備知識をもって訪ねることで、さらに奥の深い顔を見せてくれるはず。書籍、雑誌は数々あるが、今回の取材を前に参考にさせていただいたのが、この3冊。「築地魚市場銀鱗会」の事務局長が著した『築地市場』(朝日新聞出版 ¥2,500/税抜)は、築地市場の24時間や戦前・戦後の築地市場など、7つのトピックで構成。ライブ感あふれる写真と小気味いいテキストから、築地の全体像が伝わってくる。『築地のしきたり』(NHK出版 ¥680/税抜、重版未定、品切れ中)は、粋でいなせな市場の男性たちに綿密に取材。独特な伝統やしきたり、符丁などが紹介されている。「魚がし横丁」で食事をするプロたちの注文の仕方にまつわるエピソードなどは、訪れる前に必読。『Discover Japan』2016年3月号(枻出版社 ¥880/税込)は丸ごと一冊、築地市場特集。「魚がし横丁」に立ち並ぶ約140店舗のうち、飲食店全39店が網羅されたガイドもあり、一度ならず二度三度、築地を訪れたくなること請け合いだ。
問い合わせ先
■魚がし横丁
東京都中央区築地5−2-1
定休日/日・祝(築地市場に準ずる)
http://www.uogashiyokocho.or.jp
http://www.tsukijigourmet.or.jp
■センリ軒
「魚がし横町」8号館
TEL:03-3541-2240
営業時間/4:00〜12:30
※おすすめ来店時間は10:00前後
■鳥めし 鳥藤 場内店
「魚がし横丁」8号館
TEL:03-3542-7016
営業時間/6:00〜14:00
※おすすめ来店時間は9:00〜10:00
http://www.toritoh.com
■伊藤ウロコ
「魚がし横丁」1号館・7号館
TEL:03-3541-0464
営業時間/5:00〜14:00ごろ
※おすすめ来店時間は8:00〜12:00
http://www.uroko-web.com
- TEXT :
- 吉川 純 ファッションディレクター
- クレジット :
- 撮影/横田紋子(小学館写真室) 構成/吉川 純