明治維新150周年を迎えた2018年、NHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』がスタートしました。1月7日放送の初回視聴率は歴代ワースト2位(15.4%)ということで、スタートダッシュには失敗してしまいましたが、今後の展開に期待していきましょう。なぜなら、『西郷どん』に期待できるのは、その豪華なスタッフ陣。原作は人気小説家の林 真理子さん、脚本はドラマ『ドクターX』でおなじみの中園ミホさん。この豪華タッグによるドラマなら、期待せずにはいられません!

そして、前回の『おんな城主 直虎』も、序盤からの視聴率(初回16.9%)はさほどよくなかったにも関わらず、意外なところで注目を集めていったのです。

それが各回につけられるサブタイトル。最終3話のものが、「信長、浜松来たいってよ」「本能寺が変」「石を継ぐ物」。映画や小説のタイトルをパロディ化しているんです。ほかにも「城主はつらいよ」「嫌われ政次の一生」などなど。これは、脚本の森下佳子さんとスタッフが毎回打ち合わせをして決めたとか。

そんな試みがあるかと『西郷どん』でも期待しましたが、第1回のサブタイトルは「薩摩のやっせんぼ」、第2回が「立派なお侍」と、至って普通。サブタイトルのパロディ化という期待はもろくも崩れましたが、この大河ドラマの楽しみ方は、意外にもその冒頭にあったのです。

上野公園の西郷隆盛像

実は謎の多い偉人、西郷隆盛の意外な事実

ドラマは冒頭、西郷隆盛が西南戦争で戦死してから21年が経った1898年(明治31年)、上野公園で行われた西郷隆盛像の除幕式から始まります。そこで夫の像を見た西郷の妻・糸は「うちの旦那さんは、こげな人じゃなか」と口にします。このドラマの展開の鍵となりそうな序章でした。この糸の言葉は通説として、像の顔が西郷本人とまったく似ていなかったからと言われています。ではなぜ、そのような像が建っているのでしょうか…。

なぜなら、西郷の写真は1枚も残っていないと言われ、幕末の英雄でありながら謎の多い人物なのです。

そこでここでは、通説とは異なる西郷隆盛の実像に迫りたいと思います。

■1:教科書に載っている西郷隆盛は、本人ではない?

©️近現代PL/アフロ

上の写真は、教科書などでおなじみの西郷隆盛の肖像画ですが、そのモデルとなったのは、目元などが弟の西郷従道、口元などは従兄弟の大山 巌。実際に本人を目の前にして描いたものではないと言われています。

西郷隆盛の弟・西郷従道。陸軍・海軍軍人、政治家として明治政府を支えた。肖像画の目元などは彼をモデルにして描かれた。
従兄弟の大山 巌。陸軍軍人、政治家として活躍。肖像画の顔の輪郭や口元のモデルとなった。 ©️桜堂/アフロ

西郷隆盛の写真が残っていないことから、近親をモデルにしたと考えられます。しかし、高杉晋作や坂本龍馬など、明治維新よりも前に亡くなった人物の写真は残っているのにも関わらず、明治政府の要職に就いた西郷隆盛の写真が1枚も残っていない、というのは不思議です。

■2:若いときは太っていなかった?

銅像や肖像画など、西郷隆盛と言えば、ぽっちゃりとした体型の大男というイメージですよね。ところが西郷は、薩摩藩士として活動していた時期、2度の島流しにあっており、本土から遠く離れた島での苦しい生活を強いられています。座敷牢で生活したり、簡素な住居で貧しい暮らしをしていた人間がぽっちゃり体型、というのはなかなか考えられません。おそらく、若かりしころの西郷隆盛は体格はよかったものの、現在もたれているような、ふくよかなイメージとは程遠い体型だったと想像できます。

沖永良部島の謫居の地。2度目の島流しでは、徳之島からさらに遠くの沖永良部島へ流され、1年以上を過ごしている。

■3:「西郷隆盛」という名前は、間違いから生まれた?

西郷隆盛の通称は「吉之助(きちのすけ)」で、周囲からはこの通称で呼ばれていました。また、本名にあたる諱(いみな)は「隆永(たかなが)」であり、隆盛ではありません。これは明治新政府ができるとき、明治政府が西郷吉之助と同じ薩摩藩士にその本名を聞いたところ、間違えて吉之助の父親の名前「隆盛」を伝えてしまい、それ以後、本人も「隆盛」と名乗るようになったと言われています。

■4:現代の政治家に例えるなら「トランプ大統領」のようなタイプ?

西郷隆盛はまた、自由奔放な人でもありました。残されているエピソードで特徴的なのは…

・有名な「薩長同盟」の締結を下関で予定していたのに、急用ができたと京都へ行ってしまった。
・戊辰戦争終了後、新政府の準備のため東京に滞在すると思いきや、すぐに故郷・鹿児島へ帰ってしまった。
・明治新政府では征韓論争に破れるとすぐに鹿児島へ帰ってしまった。

などなど。そのほかにも、周囲の意見を聞かず、勝手に行動してしまうところがあったと言われています。その自由奔放な行動は、現代で言うならさながらトランプ大統領のよう。

■5:西郷の最期は、まるで捕われた囚人のようだった?

鹿児島市城山の西郷隆盛像

西郷隆盛が亡くなったのは、日本最後の国内戦となった「西南戦争」。その戦争の首謀者とされていますが、実は「利用されていただけ」という意見もあります。それは、イギリスの外交官で、後に駐日大使にもなったアーネスト・サトウの日記から推察できます。

鹿児島で西郷たちの不穏な動きがあると耳にしたアーネスト・サトウは、西郷に会うために鹿児島へと赴きます。そこで久しぶりに会った西郷はほとんどしゃべることなく、常に若い兵士たちに監視されていたと記されています。そしてさらに、その様子を「囚人のようだった」とも述べています。明治新政府へ勇敢に立ち向かった英雄というよりは、イメージ戦略に利用された最期だったのかもしれません。

以上のように、西郷隆盛はたった150年前に活躍したにも関わらず、同じ時代に生きた歴史上の人物と比べて謎の多い人なのです。歴史は誇張されるものですし、ドラマには脚色がつきものですが、「そんな史実はないはず」とか「そんなことあるわけない」という斜め目線で、『西郷どん』を楽しんでみるのもいいのではないでしょうか?

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