超話題作で見せた“狂気”に、6つの主演女優賞!
サイコなのか、ミステリーなのか、それとも壮絶なヒューマンドラマなのか、様々な要素を持った超話題作『TAR/ター』が、ついに日本で公開。
オスカーは惜しくも逃したものの、ゴールデングローブ賞をはじめ6つも主演女優賞を獲得したヒロイン、ケイト・ブランシェットがまた強烈な演技を見せている。
そもそもこの作品、今回のオスカーを総なめにした『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』以上に評価する専門家が多いのは事実。とりわけ主演女優賞は物議を醸している。
もちろん、初のアジア系、しかも60代の女優ミシェル・ヨーが主演女優賞に輝くという、私たちとしては嬉しい結果。しかし、ケイト・ブランシェットの演技を見ると、やはりこの人は別格と思わざるを得ないのだ。
ウィキペディアで、ケイト・ブランシェットの映画出演作一覧を見ると、ともかく圧巻! 主要な出演作の多くで、10近い映画賞やノミネートに輝いていることに改めて目を見張る。紛れもなく、ポスト“メリル・ストリープ”はこの人だ。
今回演じたのは世界一のオーケストラ、ベルリン・フィルの首席指揮者。紛れもなくコンダクターとして頂点を極めた証である。いや、かつてのカラヤンが「帝王」と呼ばれたように、全く同じポジションにつく主人公は、単なる企業のトップなどとは比較にならないほどの権力を得るのだ。
架空の人物とはいえ、そもそも女性が極端に少ない指揮者の世界で、女性の成功者は稀。レズビアンであることも公表していて、まさに怖いものなし。圧倒的な成功者として飛ぶ鳥を落とす勢いだったのが、自らの不安からなのか、それとも周囲からの疑念からなのか、精神的に次第に追い込まれていく。
まさに嫉妬と転落を描いたら、右に出る者なし?
アカデミー賞を受賞した『ブルージャスミン』でも、人も羨む大金持ちのセレブ妻からの180度の転落を描いていて、無一文なのにシャネルを着てバーキンを持ち続け、バランスを崩していく女を見事に演じている。世の中や人間がよく見えているから、こうした複雑な心理を小気味よいほど見事に表現できる、そういう人なのだ。
そして、この2つの傑作映画に共通する隠れたキーワードが、嫉妬。『ブルージャスミン』では、何不自由ない生活を奪われ、夫を失い、孤独で貧しい女に転落するのも、実は自らの女としての嫉妬の衝動から招いた結果であったというストーリー。嫉妬に狂う場面はなくても、その場の劇情に駆られて自らの人生を崩壊させ、全てを失った女の“混乱と放心”が描かれ、まさに身につまされる。
一方この『TAR/ター』は、“芸術こそが人間の嫉妬を生む最大の舞台”であること、つまり“最も根深い嫉妬を生むのが、才能”である事実を、ひたひたと忍び寄る恐怖の形で描いている。
ベルリン・フィルという世界のトップオケの常任指揮者は、それだけで音楽界のリスペクトとジェラシーの両方を全方位から一身に受けることになるけれど、この主人公には、さらに師弟関係、パワハラ、同性愛での恨みにも似た嫉妬の数々が押し寄せる。
ところが逆に、最も激しい嫉妬に狂うのは、“天才と呼ばれる、ありあまる才能を持つ者”自身だったりする皮肉な真実を描いているのだ。嫉妬という感情の恐ろしさ、不可解さ、それが人間を壊す最大の要因であることも示される。それを天才的な表現者、ケイト・ブランシェットが演じるのだ。
伝説的な俳優であり映画監督でもあるウッディ・アレンは、あるインタビューで、「彼女は常に偉大。"偉大"とは、自分が定義づけできないような天才のことで、演技が上手いをぴょんと飛び越え、理解したり、文章で説明できる範囲を遥かに超えている」と、あらん限りの言葉で絶賛している。途方もない才能なのだ。
まさかの「引退表明」の真相は?
そんな天才女優が、先ごろ「引退を表明した」と言うニュースが流れた。今後も出演作が目白押しという現実を考えれば、正直、本気かどうかわからないが、『TAR/ター』という映画に対し「自分の人生を変えるような監督と働けたことは、とても幸運だけど、このように全てを捧げると、役が自分の中に残ってしまう」と語り、引退をしても惜しくないほどの力作だった、とも語った。「だからもう、働きたくない」と。尋常ではないほどの仕事ぶりだったことを仄めかした。そしてインタビュアーが驚くと「本当よ。もうやめる時期だと感じています」と語ったのだ。
この人に限って、引退を示唆しては撤回する、よくある“引退するする詐欺”などはありえない。それを今の状況が許すかどうかは別として、そうした境地にたどり着いてしまったのは確かなのだろう。
簡単に結びつけられる話ではないけれど、ケイト・ブランシェットは2016年にUNHCR親善大使となって以来、一女優の慈善活動とはレベルの違う働きを見せている。自ら問題を提起し、世界へそれを喚起する発信を繰り返し続けている。本気と情熱、人並み外れた正義感が伝わってくる活動だ。
一方ケイト・ブランシェットは、ある発言で物議をかもした。ほとんどの女優やセレブが自らの活動や私生活をSNSで発信する中、「私は絶対やらない」と、明快に語り、「これは自尊心の問題です。他者を尊重せずに、私を好きになって!(いいねを欲しがること)というのは、大人の行動ではない。小学校の校庭みたい」と訴えた。
SNSに夢中になり、1つでも多くの「いいね」を欲しがる大人を真っ正面から批判したのだ。好感度を考えれば、簡単には口に出せない意見だったりもするわけで、強い信念を貫くタイプであると同時に、本当に肝のすわった人であることを思い知らせた。
さらに言うならば、バツ2、バツ3が全然珍しくないハリウッドで、離婚歴なし、子ども4人、夫は知名度は低いものの劇作家、長身で華やかなケイトとは見た目も不釣り合いなほど地味な印象であることがしばしば話題になっているが、この夫に不倫疑惑(単に若い女優とイチャイチャしていただけ?)にもきちんと対応し、常にこの夫とのパワーバランスを考え、夫を尊重する発言をしていることで、ベストカップルの呼び声も高い。
才能ほど嫉妬の対象になりやすい。そのための疲弊か?
この人、ただの女優ではない。いろんな意味で別格。いや、そもそもこの人「ハリウッド女優」と呼ばれることに抵抗があるとも語っている。女優でなく俳優として扱われたいとも。
少なくとも比較対象のない、唯一無二の存在であるのは紛れもない事実だが、逆にそれだけに、業界内では見えない嫉妬も感じてもいるのだろう。この『TAR/ター』という作品、ジェンダーレスを越えて、逆に女性差別に当たるのではないかという見方もあり、ヒロインであるこの人にも、批判の目が向けられているとも聞く。
引退しても悔いはない位、やり切った大仕事であったと共に、そうした歪んだ見方が更なる疲弊につながったのかもしれない。
芸術の世界ほど激しい嫉妬がうずまき、才能ほど嫉妬の対象になりやすい。それを体現するようなこの映画で、主人公そのものになりきり、まるで存在ををだぶらせるようにさらに高次元に躍り出たこの人は、尊敬とともに物言わぬ嫉妬を感じる場面もあるのかもしれない。
そこまで昇り詰めた人の、ひょっとすると最後の大作になるかもしれないこの作品を、決して見逃してはならない。
『TAR/ター』
- TEXT :
- 齋藤 薫さん 美容ジャーナリスト
- PHOTO :
- Getty Images, Zeta Image
- EDIT :
- 渋谷香菜子