ずっと不可解だった、今までのエリザベート像
クレオパトラや楊貴妃など、お馴染みの伝説的美の象徴たちは、実際のところどういう面立ちだったのか、諸説あってビジュアルイメージがあやふやだ。とりわけ美人ではなかったという説もあるほどに。
しかし、「美神」の異名を取り、ヨーロッパ一の美貌を謳われた皇妃エリザベートは、歴史上の美女の中でも最もリアルにその姿が伝えられている。写真はもちろん映像まで残っているわけで、美しかったことは疑いようがない。
しかも、身長172センチ、46キロ、ウエスト50センチと、プロポーションの詳細も明らかで、またそれをどのように維持してきたかの具体的な方法も、釣り輪やぶら下がり機器などの物的証拠を含め、すべて明らかになっている。
ただそうした史実を知るにつけ、エリザベートの美への執着ぶりはどこか不可解に思え、これまで言われてきたように、単なる元祖“美容フリーク”ではすまされない、ある種の闇を感じさせたのは確か。
この人はただ美しく、その美を維持するために必死であっただけの人なのだろうか。いや、そんなはずは無いのだ。
それを、劇的なまでに明らかにしてくれたのが、公開中の映画『エリザベート1878』である。61歳の生涯の、たった1年だけを描いた物語に他ならないのに、既に知られている細かいエピソードも、なるほどそういうことだったのかと腑に落ちる、ドキュメンタリーでも覗き見るような、ぞわぞわする何かを感じさせた。
もちろんいかなるシーンも解釈のひとつに過ぎないけれど、単にこの人物を美化していないだけでなく、ひょっとするとこれは、過去に数え切れないほどの書籍や映画や舞台で描かれてきたエリザベート像の中で、その人の影の部分を最も正確に描いた一作となるのかもしれないのだ。
美貌を売りにするしかなかったからこその、美への激しい執着
まず、エリザベートがなぜここまで美に執着したかについて。これは、今までも多くの記録がそれを裏付けている。
ハプスブルグ家に嫁ぐ前は、その風貌も実は自然児と言っていいような、粗野な印象をどこかに宿し、いわゆるキラキラした美少女ではなかったと言われる。
若き王フランツ・ヨーゼフが、本来のお見合い相手だった姉よりも、妹のエリザベートに一目惚れしまうのも、どこが暗い印象の姉よりも、快活な雰囲気を持った妹のほうに光を見たということなのかもしれない。
つまりエリザベートはまだこの頃、自分が美しいということに気づいていなかったのだ。しかし国民は、整った顔立ちやすらりとした長身の皇妃を大いに讃え、大歓迎する。他国からもそうした評判が耳に入ってくるにつれ、エリザベートは自らの美しさに改めて気づき、自分の地位を決定的なものにするのは自分の美貌であるかもしれないという判断をするのだ。
もともと姉のほうを気にいっていた姑ゾフィーは、まだ未熟な妹エリザベートの無作法に我慢がならず、厳しく冷たく当たったとされ、早くも自分の立場を怨めしく思うようになっていただけに、それは大きな救いになった。
だからこそ、年齢とともに自分の存在価値であるその美貌が衰えていくことを、許せなかったのだ。ましてや、若さが何より重要な時代である。
当然のこととして若返りの美容的手段は極端に少なかったわけで、当時の40才は本来ならば多くを諦めてしまうはずである。
しかしこの人は逆に、自らの地位と名声をかけて、猛然と当時できる限りの美容をした。ひどく狂信的とも言える偏った方法と集中力で。何よりウエストを絞りあげるコルセットへの拘泥や、踵まで届きそうな髪の長さは尋常ではなかった。
精神的に歪みなのか、鬱なのか、はたまた……
一方で、こうした美容法だけにとどまらない、常軌を逸した行動から、精神的な歪みや鬱までを噂されたが、この映画はそういう部分にも独特な解釈の仕方で、私たちを納得させてくれた。
慇懃無礼な大臣たちの前で、気絶したふりをする。狂王とされた“理解者”ルートヴィヒ2世とは、常人には理解ができない戯れを見せる。夜中に愛する息子のベッドに入り込み、添い寝する。衝動的に髪を自分で短く切る。そして、夫と言い争いののち、とっさに窓から飛び降りる。
言うならば子どものようであり、魔性の女のようでもある。
かくして自由奔放に旅をし続け、ほとんど家族のもとにいなかったにもかかわらず、夫は誠心誠意、この妻を愛し続け、だからフランツ・ヨーゼフ1世は国民に人気があったのだという説が一般的である。しかし、この映画を見る限り、もう少しこの夫は妻を冷静に見ているからこそ、一方で全く縮まらない距離をもどかしく想っていたのではないかと思えてくる。
それもおよそ掴みどころがなく、思うままにならない妖精のような存在だから。憎しみは持てない、しかし真っ直ぐ愛することもできないというもどかしさを持っていて、それを周囲に悟られまいと、妻を溺愛しているふりをしたのではないはないかと思えてくるのだ。
奇想天外、驚くべき新説には、不思議なほどの説得力がある
つまり、この夫は妻の深い孤独を最後まで理解することができなかったということになる。この作品の中で、エリザベートの死にも通じる驚くべき新説が暗示的に描かれるが、これは歴史的にも価値があるのではないかと思えるほど、不思議な説得力を持っている。
確かにずっと、喪服を着続けていたことなどを踏まえると、余計にその奇想天外な結末を否定できなくなるのだ。
この映画の中ではまるで、エリザベート自身が自分の心の内を断片的に吐露し、あなた方の考えているエリザベートと私は違うの、と語っているような気がしてくる。だから、私たちは完全にその新しいエリザベートに囚われることになるのだ。エリザベートのファンにとっては、不本意な展開かもしれないけれど、でも同時に尚さら謎めいた魅力をその人の中に見ることになるかもしれないのだ。
かつて絶賛を浴びた「アマデウス」が、モーツァルトのイメージを180度変えてしまう危険を犯してたにもかかわらず、その後むしろモーツアルト人気が爆上がりしたように、あるいはこの映画によって、エリザベートのある種の好感度が、むしろ上がることになるのかもしれない。
いずれにしろ、既存の歴史はエリザベートという人を本当には認識していなかったことは確か。この人を描くおびただしい数の作品があるというのに。
逆に言えばそのぐらい理解不能な、想像の上を行く人だったからこそ、これだけ多くのドラマを残していったということなのだろう。
やはりエリザベートは圧倒的な魅力を持っていた。これまでの定説とは違う、別のもっと不可解な魅力を。無邪気でもあり、複雑怪奇でもある魅力を。
ただ、これまで以上に確信を新たにしたのは、時代を超えて、こういう女こそが結果として、夫も含めた男たちを一様に惑わすのだということだった。単に美しいからではなく……だからいよいよ、エリザベート恐るべし。
『エリザベート 1878』全国公開中
ハプスブルク帝国が最後の輝きを放っていた19世紀末、「シシィ」の愛称で親しまれ、ヨーロッパ宮廷一の美貌と謳われたオーストリア皇妃エリザベート。1877年のクリスマス・イヴに40歳の誕生日を迎えた彼女は、コルセットをきつく締め、世間のイメージを維持するために奮闘するも、厳格で形式的な公務にますます窮屈さを覚えていく。人生に対する情熱や知識への渇望、若き日々のような刺激を求めて、イングランドやバイエルンを旅し、かつての恋人や古い友人を訪ねる中、誇張された自身のイメージに反抗し、プライドを取り戻すために思いついたある計画とは——。【公式サイト】https://transformer.co.jp/m/corsage/
- TEXT :
- 齋藤 薫さん 美容ジャーナリスト
- EDIT :
- 渋谷香菜子