女優の吉高由里子さんが主人公である紫式部(まひろ)を演じ、繰り広げられる平安時代の雅な世界や、柄本佑さん演じる藤原道長との恋模様も話題となっている大河ドラマ『光る君へ』(NHK)。改めて当時の文化や言葉の魅力を感じている方々のために、ドラマも楽しめ、ビジネス雑談にも役立つ「古語」や当時の文化について、ピックアップしていきます! 今回のテーマは、「四十の賀」。第29回の放送では、吉田羊さん演じる藤原詮子の40歳を祝う宴が催されていました。当時、「40歳」という年齢には、どんな意味があったのでしょうか。詳しく解説します!
【目次】
【大河ドラマ『光る君へ』に登場した「四十の賀」とは?】
■「読み方」
「四十の賀」は「しじゅうのが」と読みます。
■「意味」
「四十の賀」とは40歳を迎えたお祝いのこと。平安時代は、生まれた日から1歳と数え、暦年が変わった1月1日に1歳ずつ年を加えていく数え方である「数え年」を使っていましたから、満年齢ではだいたい39歳です。実は「四十の賀」は「長寿の祝い」で、このことから平安時代には40歳が老年の始まりと考えられていたことがわかります。平均寿命については諸説ありますが、「男性が33歳、女性が27歳くらい」だったという説から、長くても「男性が50歳、女性が40歳」だったのではと言われています。このことから、40歳が老境に入る年齢だとされていたとしても、違和感はありませんね。女性のほうが平均寿命が短いのは、出産で命を落とす女性が非常に多かったため。藤原詮子の「四十の賀」は、実際に1001(長保3)年の10月9日に土御門殿(つちみかどてい:藤原倫子の屋敷)で行われたということが、藤原実資の日記『小右記(しょうゆうき/おうき)』、藤原行成の日記『権記(ごんき)』に書かれています。
■『源氏物語』にも「四十の賀」は登場する
『源氏物語』「若菜」上巻には、光源氏の「四十の賀」が4度にわたり催されたと書かれています。そしてそのなかで最も早く行われた玉鬘(たまかずら)主催の賀は、正月の子の日に若菜を食べて長寿を願う行事と供に催された祝宴でした。玉鬘は夕顔と頭中将との間に生まれた娘で、光源氏が養女として育てた姫。光源氏とはかつて惹かれ合った仲でもありましたが、すでに人妻となり子どもを同伴しての再会です。当時、光源氏は准太上天皇(じゅんだいじょうてんのう:天皇に準ずる地位)の地位を得て、政治的な栄華を極めてはいましたが、一方で年齢的には、次の世代、しかもかつて惹かれた女性に長寿を祝われ、老いを意識せざるを得ないような状況になりつつあることが描かれています。
【「賀の祝い」とは?「意味」「由来」】
■意味
「賀の祝い」は中国から伝わった風習で、「長寿の祝い」を意味します。「四十の賀(初老)」から始まり、「五十の賀」、「六十の賀」などとして祝いました。このように、十年ごとにお祝いをすることを「算賀(さんが)」と呼びます
■「賀の祝い」では何をする?
「賀の祝い」は、妻や子といった関係者が縁起物の若菜を差し上げたり、管弦・舞を披露したりする宴、現代風に言えば誕生日パーティですが、同時に催行者が自らの権勢を誇示するためのデモンストレーションの場でもありました。大河ドラマ『光る君へ』でも、道長主催の「四十の賀」で、倫子の息子の田鶴、明子の息子の巌が、一条天皇の前でそれぞれ童舞を披露していましたね。あのような豪華な祝宴を主催できる程の財力を維持する平安貴族は少なかったそうです。さすがの藤原家、といえるでしょう。
■「五十の賀」も『源氏物語』で描かれていた
「源氏物語」では、光源氏の「四十の賀」の数年後、出家していた朱雀院の「五十の賀」が行われます。光源氏は上流貴族の先陣を切ってこの賀を奉じるつもりでした。これは内親王(女三の宮)を正妻とし、かつ舅(朱雀院)の信託に応えるという、光源氏の勢威の誇示だったのです。ところが、賀の直前に紫の上が倒れ、そののちにも関係者の忌月が重なり、さらには女三の宮も体調を崩すうちに、朱雀院の次女が舅・頭中将の後援で盛大な儀を奉じてしまったのです。当時の感覚では、このような不運は偶然ではありません。「賀の祝い」を奉じられない光源氏を描くことで、彼が運を失いつつあること、光源氏凋落のときが近いことを告げるエピソードとなっています。
【還暦、古希、喜寿などの年祝が始まったのはいつから?何をする?】
■いつから始まった?
現在、私たちは、還暦や古希、などを長寿のお祝いとしていますが、平安時代の文学には「祝いの賀」は登場しても、それらを示す言葉は出てきません。実はこれらの祝いは、室町時代末から始まった習慣なのです。よく知られているものをご紹介しましょう。
■お祝いには何がある?
・還暦(かんれき)
数え年で「61歳」の別称、つまり満年齢60歳を指す言葉。生まれてから60年で、生まれた年の干支(えと)が巡ってくることから、長寿を感謝し祝う行事となりました。赤いちゃんちゃんこを贈ることでも知られていますね。
・古希(こき)
古希は、中国の唐時代の詩人、杜甫(とほ)が詠んだ「曲江詩」の一節、「人生七十古来稀(じんせいしちじゅうこらいまれなり)」を由来とした言葉で、70歳まで生きる者は少ないという意味。「古稀」とも書きます。紫色が祝いの色です。
・喜寿(きじゅ)
「喜寿」は77歳を意味します。「喜」という漢字の草処体「㐂」が、七十七に見えることからきた言葉です。「喜寿」は「喜びの字の祝い」「喜の字の齢」とも言い、「古希」同様、紫色で祝います。地域によっては紫色のちゃんちゃんこや頭巾・扇子・座布団などをプレゼントするそうです。
・米寿(べいじゅ)」
「米寿」も「喜寿」同様、漢字が由来です。88歳、またその長寿の祝賀のことで、「米(よね)の祝い」とも言います。「八十八」の字画を詰めると「米」に通じることからきています。「金茶色・または黄色」の贈りものがよいとされていますよ。
・白寿(白寿)
「白」の字は、百から一を取ったものであるところから、99歳、またそのお祝いを指して「白寿(はくじゅ)」と言います。「白色」の贈りものがよいとされているようです。
・紀寿(きじゅ)または百寿(ひゃくじゅ)
100歳を迎える方へのお祝いが「紀寿」「百寿」です。1世紀は100年であることから「紀寿」、または100を漢字で書いて「百寿(ひゃくじゅ、ももじゅ)」とも呼びます。ちなみに2024 年に「紀寿」を迎える方は、満年齢1924年(大正13年)生まれの方。「白色・桃色」の贈りものがよいとされています。
■お祝いには何をする?
どのお祝いも、何か決まった行事があるわけではありません。一般的には、該当する誕生日に家族や親族、友人が集まって食事会を開いたり、近い日程でお祝いを兼ねた旅行したりすることが多いようです。
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史実では、詮子は「四十の賀」のひと月後に亡くなります。平安時代は医療も発達していませんし、貴族階級の人々は優遇されてはいたものの、室内中心の生活による運動不足や偏った食生活から、早逝する人が多かったのです。藤原道長の長兄・道隆も、持病の糖尿病で43歳で亡くなっています。ひっきりなしに水を飲むほど喉が渇く症状から、糖尿病は当時「飲水の病(いんすいのやまい)」と呼ばれました。次兄・道兼が亡くなったのはさらに若く、35歳でした。貴族階級ですらこの状況ですから、庶民に至っては栄養失調や感染症で亡くなる者は決して少なくありませんでした。平安時代の人々にとって、40歳の誕生日を祝うことは特別な意味をもっていたのでしょう。ドラマはいよいよ作家・紫式部の誕生に近づいています。より深く楽しむためにも、彼らのバックグラウンドや文化を理解して「大人の語彙力」を磨いていきましょう!
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- TEXT :
- Precious.jp編集部
- 参考資料:『日本国語大辞典』(小学館) /『デジタル大辞泉』(小学館) /『日本大百科全書 ニッポニカ』(小学館) /NHK代がドラマ・ガイド『光る君へ 後編』(NHK出版) /『マンガでわかる源氏物語』(池田書店)/『すぐに使える!教養の「語彙力」3240』(西東社) :