蒲谷直子さん
バカラ パシフィック代表取締役社長
かばやなおこ/東京大学法学部卒業後、米国系証券会社、マッキンゼー・アンド・カンパニーを経て、ラグジュアリー業界へ転身。カルティエやルイ・ヴィトン、デビアス・ダイアモンドジュエラーズやショーメなどで、リテール、マーケティング、マネジメントの経験を積む。2023年にフランス国家功労勲章を受章。2024年5月から現職。趣味は旅行と神社巡り、小学生時代の息子と共に始めた剣道を16年間続け、有段者(現在五段)に。

「ビジネスの基礎体力は、金融とコンサルで身につけました」(蒲谷直子さん)

ーー蒲谷さんは、東京大学法学部卒業後、金融の世界からキャリアをスタートしています。

新卒で、外資系の証券会社に入りました。初めて社会に出てすぐに、グローバルな経済の動きを肌で感じながら仕事をできたことは、得難い経験でした。

次に入ったコンサルティング会社では、ビジネス上での課題や問題に気づく感覚を磨くことができました。この2社で、ビジネスの基礎体力と、ユニバーサルな力のようなものを培うことができたと感じています。

その後、30代でラグジュアリーの世界に入ってからは、リテール(販売にまつわる一連の業務)、マーケティング、ITシステム構築など、あらゆるジャンルのプロジェクトマネージャーの経験をしました。

なかでも印象に残っているのは約20年前に手がけた、「ディザスターリカバリープラン」というプロジェクトです。これは、災害時におけるビジネス全般のバックアッププランの構築をすることが目的でした。

当時、各部署の業務内容は明文化されていませんでしたので、私はほぼすべてのスタッフに聞き取り調査を行い、業務内容とフローをまとめました。

ブランドは、リテール、マーケティング、ホールセール(倉庫)、ロジスティクス(物流)など数多くのセクションがあります。その細かなところまでヒアリングし、業務を洗い出すことは、会社を解剖するようなものです。

膨大な業務内容から災害時に必要なものを洗い出し、フローを組み立てるのはとても大変でしたが、この経験が私の血肉になっています。組織という大枠を捉え、問題の要点を見つけることが得意になりました。

「日本市場でブランドは成長し、進化していくと感じたことは何度もあります」(蒲谷直子さん)

ーーこれまでに、カルティエ、ルイ・ヴィトンなどのラグジュアリーブランドで、蒲谷さんは約25年もキャリアを築いて来ました。ラグジュアリーマーケットにおける、日本市場の意味や特徴をお聞かせください。

日本のマーケットが、ラグジュアリー市場を牽引していると感じています。これには2つの理由があり、1つは、マーケットの規模が大きいこと。

そして、2つ目は、日本の方のナラティブ(物語)の関心の高さです。日本のお客様は、ブランドが重ねてきた歴史、デザイナーの思想や美意識、製品の背後にあるクラフツマンシップや技術、ブランドが培って来た文化への知的好奇心が高い。これは世界でも類のないことだと感じています。

ブランドが進化する両輪は、最高のサヴォアフェール(匠の技)と、その背景にあるナラティブ(物語)です。日本の方の多くが、この両輪を理解していると感じています。だからこそ、日本市場でブランドは成長し、進化していくのだと感じたことは何度もあります。

この、高いリテラシーの背景には、日本の生活の中で優れた工芸品に接する機会が多いこともあるでしょう。例えば伝統的な織物・西陣織ですが、多くの方が培って来た技術や美意識、歴史に敬意を払っています。画一的になりがちな工業製品にはない余韻のようなものや、美を感じ取る力を、私たちは持っているのでしょう。

2024年5月にバカラ パシフィック代表取締役就任時の蒲谷さん。バカラ本社CEOマギー・エンリケス(当時)と。
2024年5月、バカラ パシフィック代表取締役に就任時の蒲谷さん。バカラ本社CEOであるマギー・エンリケスさん(当時)と。

「バカラの『アルクール』は、視覚で味わうマリアージュです」(蒲谷直子さん)

――バカラの製品も、すべて人の手で作られています。1764年にフランスのロレーヌ地方・バカラ村で創業してから約260年間、技術を磨き続けて来た歴史があります。

2024年5月に、私がバカラ パシフィックの代表に就任してから、毎日バカラ製品に接しています。そこで驚くのは、正確無比なのに、人の手で作っていることを“感じる”ことなのです。

同じグラスを比べて見たことがあるのですが、どこからどう見ても、寸分違わず同じです。でも、人の手で作っているから必ず微差がある。でもそれは肉眼ではわからないのです。この「見えない差異」が、余韻と奥行き、そして余裕ともいえる雰囲気を生み出しています。

就任前にフランスのマニファクチュールに行き、クラフツマンたちの仕事を間近で見せていただきました。どの方も製品の完成度への意識が高い。一般人の目に見えない気泡や傷を見つけて、不良品に分類するという判断に、完璧を求め続ける気迫を感じました。これもまた、バカラの真髄なのです。

マニュファクチュールには、約500人の職人が働いており、日本の人間国宝のような『フランス芸術文化勲章シュヴァリエ受章者』が2人、『M.O.F』(仏国家最優秀職人章/Meilleur Ouvrier de France)が12人、その技を継ぐ『M.A.F』(仏最優秀技能修習職人/Meilleurs Apprentis de France)が15人近くも所属。これはフランスのラグジュアリーブランドで最多。
マニュファクチュールには、約500人の職人が働いており、日本の人間国宝のような『フランス芸術文化勲章シュヴァリエ受章者』が2人、『M.O.F』(仏国家最優秀職人章/Meilleur Ouvrier de France)が12人、その技を継ぐ『M.A.F』(仏最優秀技能修習職人/Meilleurs Apprentis de France)が15人近くも所属。これはフランスのラグジュアリーブランドで最多。

――数あるバカラ製品の中で蒲谷さんご自身が、美しさを感じた代表的なアイテムは、1841年に誕生した『アルクール ワイングラス』だと伺いました。

アルクールシリーズの中でも、ワイングラスの美しさに圧倒されました。クリスタル特有のなめらかな質感と、力強く重厚感ある佇まいに目を奪われます。六角形の台座から伸びる装飾が施されたステム(脚)、その上には、フラットカットが光を放つボウル…いくつもの美が重なり合っており、視覚的に味わうマリアージュともいえます。

ヨハネ・パウロ2世、タイ女王、モロッコ国王などの時代のアイコンに愛用されてきた。ナポレオン3世から現代のエリゼ宮(大統領府)まで、フランスの権力者の御用達のグラスでもある。

このグラスが仕上がるまでに、複数の職人の手がかかっています。世界中の王室や貴族、セレブリティに選ばれているのは、美の追求を続けるクラフツマンシップが生み出す、輝きとふくよかな余韻があるからだと思います。

また、アルクール ワイングラスは、180年以上も愛され続け、今も高い人気を博しているロングラン商品でもあるのです。私のミッションは、人類の宝でもあるこのブランドを、多くの人に届けること。そのために、今の時代に合わせた改革を行っています。

後編では、蒲谷さんが就任後に改革した内容と、現在の経営課題、チーム運営の秘訣やプライベートについて紹介します。

 
聞き手…能  聡子(のう さとこ)
Precious.jp編集長 
しなやかに、今を生きる…プレシャス世代の新たなBOSS像を本連載を通じて、探っていきます。
 
PHOTO :
政川慎治
WRITING :
前川亜紀