毎年取材などで訪れているスイスには、いくつもの時計博物館がある。時間が許すかぎりではあるが、滞在中に訪問するのを小生はとても楽しみにしている。いちばん有名なのはラ・ショー=ド=フォンの国際時計博物館だけれど、その分館のような存在であるル・ロックルの通称“シャトー・デ・モン(モン城)”も必見だ。学者臭い言い方をすれば、前者がどちらかといえば自然科学寄りな“博物館”であるのに対して、後者は歴史上の名作を集めた“美術館”の色彩が強い。そしてジャケ・ドローの創業者であるピエール-ジャケ・ドローの作品群は、そのシャトー・デ・モンの収蔵する展示品の中でも、特に人気が高い。

 小生は国際博物館会議の会員でもあるから、腕時計の“ミュージアム・ピース”級モデルは見逃さないようにしてきた。その意味で現代のジャケ・ドローがつくった「トロピカル・バード・リピーター」は、絶対に無視できないオートマタの腕時計である。世界限定数は、ホワイトゴールドでわずかに8本。先行したレッドゴールドがもう品切れなので、これが最後のチャンスになるかもしれない。

楽園へと誘うジャケ・ドローの傑作「トロピカル・バード・リピーター」

オートマタでミニッツ・リピーターという大仕掛けは、文字盤左側のレバーを引き下げることで起動。静止した熱帯雨林の風景が一変し、生きものたちは一斉に動き出す。●手巻き ●18Kホワイトゴールド ●ケース径47mm ●マザーオブパール文字盤●パワーリザーブ60時間 ●ダークグリーンのアリゲーター革ストラップ ●¥77,652,000(税込価格) ※世界限定8本

 複雑時計の最高峰といわれるミニッツ・リピーター機構を備えたコンプリケーションである。ケース横のスライドレバーを引くことで、時・15分・分をケース内部のハンマーでカテドラルゴングを響かせて現在時刻を伝える。ただしこの時計は、その驚異的な機構ですら、手段であり前提である。文字盤上には南国の熱帯雨林をモチーフとした細密画が描かれ、水面がたゆとい、彫金で造形された熱帯の鳥と花、虫が集う。それだけでもミニアチュールのアートを構成する円形の小宇宙は、しかもリピーター機構の作動と同時にいのちを起動するのである。ハチドリは1秒あたり40回の、目にも止まらない速さで羽ばたきながらストレリチア(極楽鳥花)に顔を寄せ、3匹のトンボが舞い、雄クジャクは羽を広げ、トトカク(巨嘴鳥)が黄色いくちばしを開けてヤシの葉陰から顔を出す。人が分け入ることを許さず、垣間見ることも叶わない楽園の日常を、しかも最も非日常的な手法で再現しているのである。

世界最高レベルのミニッツ・リピーター機構を搭載

外周に渡されたリング状の“ゴング”を左下に見える2つのハンマーが叩き、現在時刻を音で伝えるミニッツ・リピーター機構を搭載。機械式時計の中でも最高レベルの複雑系を、シースルーバックから惜しみなく見せる。ちらネジ付きバランスホイール、スワンネック型レギュレーターと、玄人好みのディテールも満載。それをつくる技術も貴重な無形の文化遺産である。

 職人の手により生み出される楽園

熱帯雨林をモチーフとしたオートマタを構成するパーツの1つ1つも熟練の技術で削り出され、磨かれ、彩色される。極楽鳥花やオス孔雀の羽根が持つ独特の造形と色も、微細な筆を駆使して仕上げられていく。

 ジャケ・ドローはそもそも自動人形=オートマタの手練でもあった創業者、ピエール-ジャケ・ドローの衣鉢を今もしっかりと継いでいる。優れた腕時計ブランドであり、かつ並外れた腕時計をほんの少しずつ創ることを決してやめない。そういうものを創造することができる限られた者の倫理であるかのようなミュージアム・ピースは、はっきりと芸術であることを示すのである。

腕時計のサイズに凝縮されたオートマタの製作には、繊細極まりない技術が要求される。それぞれが別に作られた花や葉、昆虫などは、ミリ単位のパーツでできている。ハチドリの名の由来でもある、目にも止まらない速さで羽ばたくその羽根も、手作業でしかセッティングできない微細な重要パーツだ。

 どの国の都市であっても、それを見るためだけに訪れる価値がある。この時計を買い求められた方が、やがて次の世代に受け継がせるのであれば、よくよく価値については言い伝えておいてほしい。そうでなければ、いずれこの鳥たちの安住の巣=博物館・美術館に預託か寄贈をと、切に願ってしまう時計である。

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この記事の執筆者
桐蔭横浜大学教授、博士(学術)、京都造形芸術大学大学院博士課程修了。著書『腕時計一生もの』(光文社)、『腕時計のこだわり』(ソフトバンク新書)がある。早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校・学習院さくらアカデミーでは、一般受講可能な時計の文化論講座を開講。