毎年取材などで訪れているスイスには、いくつもの時計博物館がある。時間が許すかぎりではあるが、滞在中に訪問するのを小生はとても楽しみにしている。いちばん有名なのはラ・ショー=ド=フォンの国際時計博物館だけれど、その分館のような存在であるル・ロックルの通称“シャトー・デ・モン(モン城)”も必見だ。学者臭い言い方をすれば、前者がどちらかといえば自然科学寄りな“博物館”であるのに対して、後者は歴史上の名作を集めた“美術館”の色彩が強い。そしてジャケ・ドローの創業者であるピエール-ジャケ・ドローの作品群は、そのシャトー・デ・モンの収蔵する展示品の中でも、特に人気が高い。
小生は国際博物館会議の会員でもあるから、腕時計の“ミュージアム・ピース”級モデルは見逃さないようにしてきた。その意味で現代のジャケ・ドローがつくった「トロピカル・バード・リピーター」は、絶対に無視できないオートマタの腕時計である。世界限定数は、ホワイトゴールドでわずかに8本。先行したレッドゴールドがもう品切れなので、これが最後のチャンスになるかもしれない。
楽園へと誘うジャケ・ドローの傑作「トロピカル・バード・リピーター」
複雑時計の最高峰といわれるミニッツ・リピーター機構を備えたコンプリケーションである。ケース横のスライドレバーを引くことで、時・15分・分をケース内部のハンマーでカテドラルゴングを響かせて現在時刻を伝える。ただしこの時計は、その驚異的な機構ですら、手段であり前提である。文字盤上には南国の熱帯雨林をモチーフとした細密画が描かれ、水面がたゆとい、彫金で造形された熱帯の鳥と花、虫が集う。それだけでもミニアチュールのアートを構成する円形の小宇宙は、しかもリピーター機構の作動と同時にいのちを起動するのである。ハチドリは1秒あたり40回の、目にも止まらない速さで羽ばたきながらストレリチア(極楽鳥花)に顔を寄せ、3匹のトンボが舞い、雄クジャクは羽を広げ、トトカク(巨嘴鳥)が黄色いくちばしを開けてヤシの葉陰から顔を出す。人が分け入ることを許さず、垣間見ることも叶わない楽園の日常を、しかも最も非日常的な手法で再現しているのである。
世界最高レベルのミニッツ・リピーター機構を搭載
職人の手により生み出される楽園
ジャケ・ドローはそもそも自動人形=オートマタの手練でもあった創業者、ピエール-ジャケ・ドローの衣鉢を今もしっかりと継いでいる。優れた腕時計ブランドであり、かつ並外れた腕時計をほんの少しずつ創ることを決してやめない。そういうものを創造することができる限られた者の倫理であるかのようなミュージアム・ピースは、はっきりと芸術であることを示すのである。
どの国の都市であっても、それを見るためだけに訪れる価値がある。この時計を買い求められた方が、やがて次の世代に受け継がせるのであれば、よくよく価値については言い伝えておいてほしい。そうでなければ、いずれこの鳥たちの安住の巣=博物館・美術館に預託か寄贈をと、切に願ってしまう時計である。
問い合わせ先
- TEXT :
- 並木浩一 時計ジャーナリスト