雑誌『Precious(プレシャス)』12月号では、特集「奥能登、心整う癒しの湯宿へ」と題して、漫画家・文筆家・画家・東京造形大学客員教授のヤマザキマリさんとともに、能登半島の宿「湯宿 さか本」を深堀り。
さまざまなお温泉を旅してきたヤマザキマリさんが訪れた地には、飾らない本物がありました。
大地のパワーをチャージして、静けさのなかに心と体を癒すひととき。本記事では、喧騒を離れ、自然豊かな余剰のない場所で静かに自分と向き合える、石川県の「湯宿 さか本」ご紹介します。
喧騒を離れ、自然豊かな余剰のない場所で静かに自分と向き合う
自由に旅ができるようになり、ヤマザキマリさんの「移動して生きることをデフォルトとする」日々がまた始まりました。
今回、湯の旅の候補地にあがったいくつかのなかから、ヤマザキさんが「直感的」に選んだのは、能登。
「学生の頃、イタリアで読んだ本に能登の文化が『陰翳礼讃』的に描かれていて、それがずっと心に残っていました。都会の喧騒を離れて、余剰を排した場所で静かに過ごしてみたい」
そんな希望を叶えてくれそうなのが、かねてから食関係の方々に滋味豊かな「常食」が美味しいとうかがっていた奥能登の「湯宿 さか本」でした。絶品と噂の“ブリ大根”を食べに行きましょう!と、すぐに決定。
残念ながら訪れた時期は、ブリも大根も、季節に少し早かったのですが、郷土の味を生かし、その日手に入る旬の食材を出してくださるというのも楽しみでした。
宿のある能登半島の奥、珠洲市までは、のと里山空港から車で40分ほど。時間があれば、日本海の海沿いをドライブするのもいいでしょう。
「湯宿 さか本」は、坂本菜の花さんが両親と営む、一日三組の小さな宿。白いのれんをくぐると、静かに迎えてくれるのは旅籠風情の趣ある土間に簡素に選び抜かれたしつらえ。磨き上げられた漆塗りの廊下には裏庭の緑が鏡のように映ります。
能登の滋味が並ぶ夕食の締めは絶品の焼きおにぎり!
訪いを告げて、部屋で荷ほどきをすませると、さっそく庭を散歩。「朝食にはこの立派な鶏の卵が出るのね」と、鶏や犬に声をかける動物好きのヤマザキさん。夕食の6時半までは、離れでコーヒーを淹れて本を読んだり、縁側でお茶をしたり、思い思いに贅沢な時間を過ごします。
「いたらない、つくせない宿」と自ら謳うだけに、エアコンも部屋の冷蔵庫も、アメニティもありません。Wi-Fiも飛ばなければ、ときに携帯電話も通じにくい。
「でもそんなふうに、何かを手放すのが心地よくて。むだがないこと、ミニマルに美しく暮らす豊かさの本質に、否応なしに触れられるのです」
さて、台所からのいいにおいに誘われて、そぞろ集まってきた客が席につく頃合いを見て、夕餉の始まりです。この宿を選んだいちばんの理由がほかにはない特別な食事でした。期待を込めて、能登の地酒を選び、飲めない人には自家製の梅ジュースも。
初めに銀杏と栗の素揚げが絶妙なタイミングで出され、ウナギを底に敷いた滋養たっぷりのハス蒸しの優しいこと。能登の魚醤、いしるで味付けした焼きナス、そして甘鯛のお頭は一体どうしたらこんなにトロトロと美味いのか…。そして締めには、いしるとごま油を塗って焼いた焼きおにぎりにヤマザキさんも言葉を失います。外はカリッと、中はもっちり米粒が光って…。
「ほの暗さが心地いい広間で『陰翳礼讃』を思い静かな夜を迎えます」
食後は先代のご主人とヤマザキさんのめくるめく語らいに時を忘れて…
ヤマザキさんがこの食事で驚いたのが能登料理によく使われる魚醤の「いしる」でした。「さか本」では、おにぎりや大根には、あっさりとしたサバとアジを発酵させたいしるが、ナスには香りが食欲をそそるイカのいしるが使われます。
「『テルマエ・ロマエ』でも書いたのですが、古代ローマ人も魚醤をガルムと呼んで、特に皇帝はウツボのガルムを好んでいました。ここ能登に来て、古代ローマとのつながりを感じて、しみじみ参考になります。ローマ人がここに泊まったら、きっと魚醤の使い方を学ぶでしょうね」
そしてベトナムのナンプラーに話題が移ると、先代の坂本さんのタイ・チェンマイの寺院での修行から、壮絶な人生の話へ。互いにどこか通じ合う半生を送ってきたふたりの、ここでは語り尽くせないほどの物語が展開。心揺さぶられる夜になりました。そんな経験もまた旅の魅力。坂本さんが高校時代の事故で長期入院し、和菓子づくりや美術の夢をあきらめて、湯治場だった実家を継ぐことになった経緯。見舞いの帰りに亡くなられたお父様のことや、以来、人生が音を立てるように変わり、出会いに恵まれ続けて今があることなど。
「こんなに波乱万丈な人生を送ってこられたのに、このシンプルで研ぎ澄まされたお父様の佇まいに『さか本』の魅力が隠されているようです」
かつて湯治場だったここには、湯にも食にもいい水源が!
鶏の鳴き声で目覚めたら揚げたてのがんもどきが!心と体に優しい朝ご飯
昨晩は夜遅くまで語り合い、お風呂に入ると、ぐっすり眠れたというヤマザキさん。羽田から能登までは日本列島の小さな背中をひょいと飛び越えるくらいの距離。そんなわずかな移動で、いつもとは違う濃密かつ静かで、得難い一日が過ごせるのは、やはり忙しい大人にとって旅の醍醐味です。
「楽しみにしていた湯は、薪の沸かし湯なので、ダイナミックな掛け流しという佇まいではないですが、まさにこの宿のイメージとマッチする慎ましさのなかに驕らぬ地球的なプライドと、なにより気品を感じる泉質でした」と振り返ります。
そしてイタリア留学時代から思い描いていた能登のイメージは?
「行きの飛行機の窓から見た能登半島は、すでに形そのものが美しくて胸が高鳴りました。能登には外国人が思い描いているような日本の『陰翳礼讃』のイメージや、失われてしまった日本の美徳などが色濃く残り、『さか本』は、まさにその象徴です。新一郎さんの生き方の徳や美意識がそのまま『さか本』という宿の形になって表れているからこそ、人を魅了するのでしょう。妥協のない人生を送ってきた人たちは最終的に、本当にいいものを判断できる五感が備わるものなのだと痛感。私もそんなぶれない姿勢を、いつの日か身につけたいと思いました」
『さか本』の朝の名物となっている、揚げたてのがんもどき。美穂子さんが丁寧に豆腐づくりから始めて丸1日をかけるという逸品。ニンジン、ゴボウ、椎茸、黒ごま、干し桜海老などが入って、中はふんわり、外はカリッと。朝から揚げたてをいただく、なんという口福!宿で使われる漆の器は、輪島塗りの瀬戸國勝さん、焼き締めの器の多くは和歌山の陶芸家、森岡成好さんのもの。
問い合わせ先
- 湯宿 さか本
- 料金/2名1室利用時1泊1名
- 3〜9月/¥20,000(税込) 、10月/¥27,000(税込)、11月10日〜年末/¥22,000(税込) お一人様は+¥2,000
- ※1、2月は休み。お支払いは現金のみ
- TEL:0768-82-0584
- 住所/石川県珠洲市上戸町寺社15-47
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- PHOTO :
- 宮濱祐美子
- STYLIST :
- 小倉真希
- HAIR MAKE :
- 田光一恵(TRUE)
- EDIT&WRITING :
- 藤田由美、古里典子(Precious)