雑誌『Precious(プレシャス)』12月号では、特集「奥能登、心整う癒しの湯宿へ」と題して、漫画家・文筆家・画家・東京造形大学客員教授のヤマザキマリさんとともに、能登半島の宿「湯宿 さか本」を深堀り。

さまざまなお温泉を旅してきたヤマザキマリさんが訪れた地には、飾らない本物がありました。

大地のパワーをチャージして、静けさのなかに心と体を癒すひととき。本記事では、喧騒を離れ、自然豊かな余剰のない場所で静かに自分と向き合える、石川県の「湯宿 さか本」ご紹介します。

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新たな『テルマエ・ロマエ』の取材で湯巡り行脚が続くヤマザキマリさん。この旅だけは束の間のリラックス。コート・パンツ・バッグ・靴(ロロ・ピアーナ ジャパン)
ヤマザキマリさん
漫画家・文筆家・画家・東京造形大学客員教授
1967年生まれ。フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史と油絵を専攻。イタリア人比較文化研究者の夫との結婚を機に、エジプト、シリア、ポルトガル、アメリカで暮らす。2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回漫画大賞を、第14回手塚治虫文化賞短編賞を受賞。著書に『プリニウス』(とり・みきとの共著/新潮社)、エッセイ『ヴィオラ母さん』(文藝春秋)、『猫がいれば、そこが我が家』(河出書房新社)など。新刊に『扉の向う側』(マガジンハウス)。

喧騒を離れ、自然豊かな余剰のない場所で静かに自分と向き合う

自由に旅ができるようになり、ヤマザキマリさんの「移動して生きることをデフォルトとする」日々がまた始まりました。

今回、湯の旅の候補地にあがったいくつかのなかから、ヤマザキさんが「直感的」に選んだのは、能登。

「学生の頃、イタリアで読んだ本に能登の文化が『陰翳礼讃』的に描かれていて、それがずっと心に残っていました。都会の喧騒を離れて、余剰を排した場所で静かに過ごしてみたい」

そんな希望を叶えてくれそうなのが、かねてから食関係の方々に滋味豊かな「常食」が美味しいとうかがっていた奥能登の「湯宿 さか本」でした。絶品と噂の“ブリ大根”を食べに行きましょう!と、すぐに決定。

残念ながら訪れた時期は、ブリも大根も、季節に少し早かったのですが、郷土の味を生かし、その日手に入る旬の食材を出してくださるというのも楽しみでした。

宿のある能登半島の奥、珠洲市までは、のと里山空港から車で40分ほど。時間があれば、日本海の海沿いをドライブするのもいいでしょう。

「湯宿 さか本」は、坂本菜の花さんが両親と営む、一日三組の小さな宿。白いのれんをくぐると、静かに迎えてくれるのは旅籠風情の趣ある土間に簡素に選び抜かれたしつらえ。磨き上げられた漆塗りの廊下には裏庭の緑が鏡のように映ります。

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磨き上げられた漆塗りの廊下。客もスリッパを着用しないのがマナー。
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磨き上げられた漆塗りの廊下。客もスリッパを着用しないのがマナー。
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土間には、石の水槽からの湧き水を受ける水舟に常に水が流れて。左に見えるかまどは味噌をつくるための大豆を炊くのに今も使用。
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ふたつある浴室には、写真の石風呂と漆塗り風呂が。竹林の景色が鮮やかに映り込む。

能登の滋味が並ぶ夕食の締めは絶品の焼きおにぎり!

訪いを告げて、部屋で荷ほどきをすませると、さっそく庭を散歩。「朝食にはこの立派な鶏の卵が出るのね」と、鶏や犬に声をかける動物好きのヤマザキさん。夕食の6時半までは、離れでコーヒーを淹れて本を読んだり、縁側でお茶をしたり、思い思いに贅沢な時間を過ごします。

「いたらない、つくせない宿」と自ら謳うだけに、エアコンも部屋の冷蔵庫も、アメニティもありません。Wi-Fiも飛ばなければ、ときに携帯電話も通じにくい。

「でもそんなふうに、何かを手放すのが心地よくて。むだがないこと、ミニマルに美しく暮らす豊かさの本質に、否応なしに触れられるのです」

さて、台所からのいいにおいに誘われて、そぞろ集まってきた客が席につく頃合いを見て、夕餉の始まりです。この宿を選んだいちばんの理由がほかにはない特別な食事でした。期待を込めて、能登の地酒を選び、飲めない人には自家製の梅ジュースも。

初めに銀杏と栗の素揚げが絶妙なタイミングで出され、ウナギを底に敷いた滋養たっぷりのハス蒸しの優しいこと。能登の魚醤、いしるで味付けした焼きナス、そして甘鯛のお頭は一体どうしたらこんなにトロトロと美味いのか…。そして締めには、いしるとごま油を塗って焼いた焼きおにぎりにヤマザキさんも言葉を失います。外はカリッと、中はもっちり米粒が光って…。

和文化_1
母の美穂子さんがつくる焼きおにぎり。減農薬栽培の能登米を洗い、20分もの間、ここの鉱水を掛け流して炊いて、サバとアジのいしると、ごま油で焼いたもの。「家では再現不可能。ここでしか味わえません!」とヤマザキさん。
イラストは最後のひと口まで時間をかけて、名残惜しそうにいただくマネージャーさん。「戦時中じゃないんだから!」と笑うヤマザキさん。 絵/ヤマザキマリ
イラストは最後のひと口まで時間をかけて、名残惜しそうにいただくマネージャーさん。「戦時中じゃないんだから!」と笑うヤマザキさん。 絵/ヤマザキマリ
和文化_2
上品に昆布締めしたマンタメバチの刺身
和文化_3
唯一無二の美味だった甘鯛のお頭。ひょうきん顔の甘鯛のお頭が美味!
和文化_4
簡素さのなかに貫かれた美意識が見事。「思い描いていた能登のイメージそのものでした」とヤマザキさん。掛け軸の書は弟の佗助さんが5歳のときに書いたもの。

「ほの暗さが心地いい広間で『陰翳礼讃』を思い静かな夜を迎えます」

食後は先代のご主人とヤマザキさんのめくるめく語らいに時を忘れて…

ヤマザキさんがこの食事で驚いたのが能登料理によく使われる魚醤の「いしる」でした。「さか本」では、おにぎりや大根には、あっさりとしたサバとアジを発酵させたいしるが、ナスには香りが食欲をそそるイカのいしるが使われます。

「『テルマエ・ロマエ』でも書いたのですが、古代ローマ人も魚醤をガルムと呼んで、特に皇帝はウツボのガルムを好んでいました。ここ能登に来て、古代ローマとのつながりを感じて、しみじみ参考になります。ローマ人がここに泊まったら、きっと魚醤の使い方を学ぶでしょうね」

そしてベトナムのナンプラーに話題が移ると、先代の坂本さんのタイ・チェンマイの寺院での修行から、壮絶な人生の話へ。互いにどこか通じ合う半生を送ってきたふたりの、ここでは語り尽くせないほどの物語が展開。心揺さぶられる夜になりました。そんな経験もまた旅の魅力。坂本さんが高校時代の事故で長期入院し、和菓子づくりや美術の夢をあきらめて、湯治場だった実家を継ぐことになった経緯。見舞いの帰りに亡くなられたお父様のことや、以来、人生が音を立てるように変わり、出会いに恵まれ続けて今があることなど。

「こんなに波乱万丈な人生を送ってこられたのに、このシンプルで研ぎ澄まされたお父様の佇まいに『さか本』の魅力が隠されているようです」

和文化_5
2階まで吹き抜けの食堂から見えるのは緑豊かな庭。
大根が甘い季節になると、いしるのだし汁に漬けた大根を焼く漬け物「べんこうこ」が出されることも。あまりの美味しさに、ヤマザキさんも挑戦。
大根が甘い季節になると、いしるのだし汁に漬けた大根を焼く漬け物「べんこうこ」が出されることも。あまりの美味しさに、ヤマザキさんも挑戦。
火鉢の炭も美しく整えられて。
火鉢の炭も美しく整えられて。
床暖房のある離れはチェックアウト後も利用可能。静かに読書を楽しむヤマザキさんの憩いの場所に。
床暖房のある離れはチェックアウト後も利用可能。静かに読書を楽しむヤマザキさんの憩いの場所に。
夕食を彩る8種のお煮しめは一つひとつ丁寧に別の鍋で煮こんだもの。
夕食を彩る8種のお煮しめは一つひとつ丁寧に別の鍋で煮こんだもの。
和文化_6
薄明かりの中に浮かび上がる美しい石風呂。浴室も『陰翳礼讃』的!
一日3回というヤマザキさんの入浴ペースは、旅先でも変わらない。食後、3度めの湯船に浸かると、あとは寝心地抜群のお布団にくるまり、締め切りのことは一旦忘れて爆睡…。 絵/ヤマザキマリ
一日3回というヤマザキさんの入浴ペースは、旅先でも変わらない。食後、3度めの湯船に浸かると、あとは寝心地抜群のお布団にくるまり、締め切りのことは一旦忘れて爆睡…。 絵/ヤマザキマリ
和文化_7
外廊下に面した洗面所で季節を感じながら歯磨きを。冬の寒さもまたいいもの。
朝食前、蛸島漁港の朝市に足を延ばすのも楽しい。
朝食前、蛸島漁港の朝市に足を延ばすのも楽しい。
ちょうどイカ釣り船が帰港する時間。
ちょうどイカ釣り船が帰港する時間。
坂本さん家族が憩う部屋の壁にはたくさんのサインが並び、ヤマザキさんのイラストが新たに描かれた。
坂本さん家族が憩う部屋の壁にはたくさんのサインが並び、ヤマザキさんのイラストが新たに描かれた。
大根を焼く菜の花さんとヤマザキさんの息の合った笑顔。下の絵はヤマザキさんが描いた先代のご主人、新一郎さん。波乱万丈の人生を感じさせない、すっきりと爽やかな佇まい。
大根を焼く菜の花さんとヤマザキさんの息の合った笑顔。下の絵はヤマザキさんが描いた先代のご主人、新一郎さん。波乱万丈の人生を感じさせない、すっきりと爽やかな佇まい。
絵/ヤマザキマリ
絵/ヤマザキマリ
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裏庭に祀られた「お薬師さん」の下には、こんこんと湧き出る良質な鉱泉の水源があったことから湯治場に。この水は飲んでも美味しく、湯上がりの冷たい一杯が堪らない!

かつて湯治場だったここには、湯にも食にもいい水源が!

鶏の鳴き声で目覚めたら揚げたてのがんもどきが!心と体に優しい朝ご飯

昨晩は夜遅くまで語り合い、お風呂に入ると、ぐっすり眠れたというヤマザキさん。羽田から能登までは日本列島の小さな背中をひょいと飛び越えるくらいの距離。そんなわずかな移動で、いつもとは違う濃密かつ静かで、得難い一日が過ごせるのは、やはり忙しい大人にとって旅の醍醐味です。

「楽しみにしていた湯は、薪の沸かし湯なので、ダイナミックな掛け流しという佇まいではないですが、まさにこの宿のイメージとマッチする慎ましさのなかに驕らぬ地球的なプライドと、なにより気品を感じる泉質でした」と振り返ります。

そしてイタリア留学時代から思い描いていた能登のイメージは?

「行きの飛行機の窓から見た能登半島は、すでに形そのものが美しくて胸が高鳴りました。能登には外国人が思い描いているような日本の『陰翳礼讃』のイメージや、失われてしまった日本の美徳などが色濃く残り、『さか本』は、まさにその象徴です。新一郎さんの生き方の徳や美意識がそのまま『さか本』という宿の形になって表れているからこそ、人を魅了するのでしょう。妥協のない人生を送ってきた人たちは最終的に、本当にいいものを判断できる五感が備わるものなのだと痛感。私もそんなぶれない姿勢を、いつの日か身につけたいと思いました」

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庭が一望できる大広間の縁側に座ってくつろぐヤマザキさん。犬のビーちゃんにアイコンタクトを送って。カシミアのカーディガン・パンツ(ロロ・ピアーナ ジャパン)
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「わかる人が来てくれたら…というぶれない姿勢をいつか自分も身につけたい」
シンプルだけれど、一つひとつ手抜きのない、体にうれしい朝ご飯。朝、賑やかな鳴き声で起こしてくれた鶏が産んだ極上の卵を温泉卵に。焼き魚はイワシや、ハタハタなど干物を。自家製の味噌を使ったお味噌汁と漬け物はこれだけでご飯のおかわりができる。
カリッと揚げたてをいただきます!
カリッと揚げたてをいただきます!

『さか本』の朝の名物となっている、揚げたてのがんもどき。美穂子さんが丁寧に豆腐づくりから始めて丸1日をかけるという逸品。ニンジン、ゴボウ、椎茸、黒ごま、干し桜海老などが入って、中はふんわり、外はカリッと。朝から揚げたてをいただく、なんという口福!宿で使われる漆の器は、輪島塗りの瀬戸國勝さん、焼き締めの器の多くは和歌山の陶芸家、森岡成好さんのもの。

琉球犬の血を引く保護犬でちょっと臆病なビーちゃん。もう1匹のコッコちゃんはおそらく娘とか。2匹で庭を守っている。 絵/ヤマザキマリ
琉球犬の血を引く保護犬でちょっと臆病なビーちゃん。もう1匹のコッコちゃんはおそらく娘とか。2匹で庭を守っている。 絵/ヤマザキマリ

問い合わせ先

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  • 湯宿 さか本
  • 料金/2名1室利用時1泊1名
  • 3〜9月/¥20,000(税込) 、10月/¥27,000(税込)、11月10日〜年末/¥22,000(税込) お一人様は+¥2,000
  • ※1、2月は休み。お支払いは現金のみ
  • TEL:0768-82-0584
  • 住所/石川県珠洲市上戸町寺社15-47

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PHOTO :
宮濱祐美子
STYLIST :
小倉真希
HAIR MAKE :
田光一恵(TRUE)
EDIT&WRITING :
藤田由美、古里典子(Precious)