外出のときはもちろん、ルームウエアとしても活用するなど、生活するうえでなくてはならない必需品「靴下」。ファッションアイテムとしても、さまざまなデザインの靴下が販売されていますよね。

ですが、その成り立ちや変遷を知っているという人は、意外と少ないのではないでしょうか?

そこで、実際に靴下を製造・販売しているプロにお話をおうかがいすべく、株式会社ナイガイの本社内にある靴下博物館へお邪魔しました。

1920年創業のNAIGAI(ナイガイ)は、日本で初めて自動機械での靴下の生産を始めた会社です。商品部門で企画開発を手がける土屋聡子さんにナビゲートしていただき、展示品とともに靴下の歴史を紐解いていきましょう。

■靴下がはかれるようになったのは「紀元前4世紀よりさらに前」

最も古いと推測されている靴下。現在はレスター美術博物館に保管されている
最も古いと推測されている靴下。現在はレスター美術博物館に保管されている

そもそも、靴下の発祥はいつなのでしょうか。実は、まだはっきりとわかっておらず、エジプトのアンチーノの墳墓から発見されたものが最古の靴下だと言われているのだそう。

「この靴下は紀元前4〜5世紀のものと考えられ、現存する靴下のなかで最も古いと言われています。おそらく子供の靴下で、エジプトの王室関係の方のものだったのではないでしょうか」(土屋さん)

そもそも靴下の起源は、包み込むように足を保護していた毛皮なのだそう。捕獲した動物の毛皮を細く切り、足に巻いて、寒い地域で足を保温する——その目的は想像に容易いことですが、より宗教的な意味を帯びるようになるのが靴下の歴史のおもしろいところ。聖職につく人が足を不浄な大地につけないために着用し、布教とともに広がっていったとも語られているのです。

編み機を発明した牧師ウイリアム・リーとその妻
編み機を発明した牧師ウイリアム・リーとその妻

さて、人類の歴史を考えると「機械化」という現象は外せないはず。靴下の生産が機械化したのは必然と言えるのではないでしょうか?

長らく手編みだった時代に終止符を打ったのは意外にも学者や貴族ではなく、牧師だったと土屋さんは言います。

「貧しい牧師ウイリアム・リーは、奥さんが手編みで靴下を内職していた姿をみて、『なんとか妻を楽にしたい』と思っていました。奥さんの手助けをしたいという、その想いから機械化を決意したんです。そして彼は研究のすえ、1589年、足踏みの編立機械を完成させました」(土屋さん)

研究に要した期間はなんと9年。機械化への一歩を踏み出したのは、ひとりの牧師が妻を想ういたわりの気持ちがきっかけだったのです。

■日本で最初に靴下をはいたのは「徳川光圀」

南蛮貿易は長崎や平戸を中心にスペインやポルトガル船との貿易が行われた
南蛮貿易は長崎や平戸を中心にスペインやポルトガル船との貿易が行われた

和装の歴史が長かった日本へ靴下が伝来したのは1567年から1635年、南蛮貿易の時代。どの国から伝えられたのか、はっきりとは特定されていないものの、おそらく貿易の際に交流があった国ではないかと推測されています。

そんな日本で最初に靴下をはいたと言われているのが、国民的ドラマで有名なあの人物でした。

水戸黄門(徳川光圀)の墓から発掘された靴下の複製品
水戸黄門(徳川光圀)の墓から発掘された靴下の複製品

「日本で初めて靴下をはいたのは水戸黄門。新しいもの好きとして知られている黄門さまは日本で最初にラーメンを食べたことでも有名ですよね(※)。ポルトガルやスペイン、オランダから寄贈されたものでしょうか。彼のお墓からでてきた靴下は7足。そのなかのひとつは、洗濯した形跡やはきつぶした痕跡がありました。だから、きっとお好きではかれていたのでしょうね」(土屋さん)

上の写真は、水戸黄門の墓から発見された靴下を再現したもの。当時、靴下は「メリヤス」と呼ばれ、古書の記述にはときおり「莫大小」と書かれているのだそう。その意味は漢字のとおり、「大小莫かれ」。つまり、大きくなったり小さくなったりするものという意味で、伸び縮みする靴下をそのまま表しています。

そして「靴下」と呼ばれるようになったのは1950年代以降のこと。靴下の長い歴史を考えると意外にも最近のことだったのですね。

※2017年に発見された室町時代の史料『蔭涼軒日録(おんりょうけんにちろく)』にて、京都で僧侶が「経帯麺」という麺をお客様に振る舞ったという記述が発見され、日本初のラーメンを食べたのは徳川光圀ではないという説が登場、注目を集めている。

■武士が内職で手編みの靴下をつくる

手編みのメリヤスを編んでいる武士の絵
手編みのメリヤスを編んでいる武士の絵

庶民にはまだ認知されていなかった南蛮貿易の時代から、時が経つこと約100年。江戸時代の後期になると、「武士が手編みの靴下を編んでいた」という記述が多く残されているそう。

「このころから靴下が少しずつ大衆へ認知されはじめます。武士が内職で靴下を編んだり、当時でいう『メリヤス』を幕府に献上していた藩もありました。とはいえ、このときも靴下はそれほど大衆向けではありませんでしたし、ファッションというより、実用的なものとして着用していたと思います」(土屋さん)

では、一般大衆へ広く認知され、今のように誰もがはくようになったのはいつだったのでしょうか…? その問いに、「和装から洋装に変わったタイミングがターニングポイントになった」と土屋さんは答えます。

「アメリカの靴下編み機を輸入して、生産した大正時代。このころにはすでに英語で書かれた靴下編み機のパンフレットが日本向けにつくられています」(土屋さん)

文明開化によって、日本の洋装化が市民へも拡大した明治時代。靴下の需要が増え、手編みから手回し、更に自動編み機へと進化していったのだそう。靴下の歴史には今の欧米的な生活となるきっかけばかりなのです。

〜番外編〜:靴下博物館のおもしろい靴下

これまで靴下の「成り立ち」にフォーカスして話を進めてきましたが、今回案内いただいた靴下博物館にはおもしろい靴下が盛りだくさん。そんな独創的で個性的な靴下を番外編としてご紹介します。

フートカバーソックス

足の甲側の布をカットして、ゴムテープを縫い付けた靴下
足の甲側の布をカットして、ゴムテープを縫い付けた靴下

女性がパンプスをはくとき、シューズから靴下を見えないようにするためにはくこちらの靴下。実は昭和11(1936)年の時点ですでに販売されていたのだそう。当時は「フートカバー」と呼ばれ、ストッキングの上にはき、伝線防止のためにはいていたのだとか。パンプスの下にはく靴下の前進が1930年代にあったことは、おもしろい事実です。

ジャイアント馬場さんの靴下

オーダーメイドでつくったジャイアント馬場さんの靴下
オーダーメイドでつくったジャイアント馬場さんの靴下

既成の靴下ではサイズが合わなかったジャイアント馬場さん。ナイガイではご本人からオーダーを受けて靴下をつくっていたのだそう。サイズは32cmとビッグサイズ。明るい綺麗な色が好きで、いつもこのようなお色味の靴下をはいていたのだとか。

川端康成さんの靴下

オーダーメイドでつくった川端康成の靴下
オーダーメイドでつくった川端康成の靴下

土屋さん曰く、とてもおしゃれな方としても有名だった作家・川端康成さん。こちらもナイガイがオーダーを受けてつくった靴下。そのサイズは23㎝。特に手刺しゅうが施された高級なラムウールの靴下を好み、1年中はいていたのだとか。

3足10万円の幻の靴下

希少動物ビキューナの毛でつくられた靴下
希少動物ビキューナの毛でつくられた靴下

こちらはビキューナの毛でつくられた3足10万円の靴下。1足およそ3.3万円。現在はワシントン条約で禁止されているため販売されていない、幻の超高級品なのだそう。

東京オリンピックの靴下

東京オリンピック記念靴下
東京オリンピック記念靴下

こちらは1964年の東京オリンピック記念靴下。アジア地域で初めて開催されたことや過去最多の出場国数となったことでも有名ですよね。ちなみに、よく見ると五輪のデザインが現在と少し違うのです。

■多くのエピソードが残る靴下

そのほかにもさまざまな靴下が展示されている
そのほかにもさまざまな靴下が展示されている

「中世ヨーロッパでは司祭がはいていたり、日本では武士が着用していたり、最初は男性から始まった衣類でしたが、女性もはくようになり、今ではファッションとして、はく人ならではのオリジナリティーがある。靴下の歴史を振り返ると、とてもおもしろい話であふれているんです」(土屋さん)

今回見せていただいた靴下博物館には紹介したもの以外にも、さまざまものが所蔵されています。そのひとつひとつにはおもしろい成り立ちや事実ばかり。当たり前にあるものには意外なお話や誰もが知る人物との関わりがありました。

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EDIT&WRITING :
高橋優海(東京通信社)
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