一度は旅立った出身地・関西に戻り、家業を継ぐ決意をした女性。関西に魅せられ、移住することを選んだ女性。関西を拠点に、国内外で活躍する女性たちの生き方を綴る連載「〜京都、大阪、神戸〜 彼女たちの三都物語」、2人目は京都の祇園で英語を駆使して活躍する舞妓さん、富津愈(とみつゆ)さんにお話をうかがいました。

祇園で初めての、バイリンガルの舞妓さん

京都の花街史上初となるバイリンガルの舞妓・富津愈さん
京都の花街史上初となるバイリンガルの舞妓・富津愈さん

今なお伝統と独特のしきたりが色濃く残る京都の花街で、前代未聞の2か国語を話す「国際派舞妓」として話題を呼んでいる舞妓さんがいます。通常、舞妓になるためには、中学を卒業後、15~16歳から置屋に住み込みますが、富津愈さんは置屋に入る前の中学校時代、自らの意思でニュージーランドに留学したそう。

魔法学校に入れなくて、留学を決意!?

祗園東の置屋「富菊」で話す富津愈さん
祗園東の置屋「富菊」で話す富津愈さん

富津愈さんがニュージーランドへ旅立ったのは弱冠、12歳のとき。それも誰に勧められたわけでもなく、自分の意思で留学を決意したのだというから、驚きです。

「小さいときから、日本を出たいなあ、って、思ってて。それに、ハリーポッターも好きやって、いつか魔法学校に行けると本気で思ってたんどす。そやけど、いつになっても魔法学校の入学通知が届かしまへんやろ。それなら留学しようと思いましてん。そやし、ほんまはイギリスに行きたかったんやけど、イギリスは最初から語学力がないと入れない学校ばかりで。うち、スポーツが苦手なんやけど、ニュージーランドの学校は好きな科目を選択できて、体育を取らんでもよかったんどす。それもニュージーランドを留学先に選ぶきっかけになりました」

ニュージーランドに留学するきっかけは、いたって幼い小学生らしい理由! ところが、留学を決意してから実行に移すまでの素早さは、小学生とは思えないものでした。

自ら留学の資料を取り寄せ、親を説得

祗園東の置屋「富菊」前で微笑む富津愈さん
祗園東の置屋「富菊」前で微笑む富津愈さん

留学やホームステイを斡旋してくれる会社もすべて、自分ひとりで調べたという富津愈さん。

「資料請求もいっぱいしましたね。それで親に、これこれこんだけ費用がかかるんやけど、行かせてほしいってお願いしたんです。うちの親は小さいときから、好きなことさせてくれてたし、反対もされませんでしたね」

いざ留学を許してもらってから、旅立ちまではわずか1か月だったそう。大人顔負けの行動力!

「その歳になるまで海外旅行に行ったこともないし、パスポートがなかったんどす。そやし、パスポートが取れるのを待って、すぐに行った感じです」

「舞妓になるなら今しかない」と決断

祗園東の置屋「富菊」所属の舞妓・富津愈さん
祗園東の置屋「富菊」所属の舞妓・富津愈さん

ニュージーランドに渡り、英語を学び、学生生活を満喫していたが、次第に強まったのが舞妓になりたいという想いだったそう。

「何かしら日本の伝統に携わる仕事に就きたいと思ってたんどす。そんな中、小さいころから舞妓さんに対しては憧れがあったし、若いうちしかできひん仕事やし、だめもとで頑張ってみよかなと思いました」

ニュージーランドの学校は中高一貫でしたが、舞妓になるためには、15歳、16歳から置屋に住みこむのが一般的で、次の夢に向かって帰国を決意したそう。憧れを現実にするための“帰国”という決断が、京都の花街史上初となるバイリンガルの舞妓さん“富津愈” 誕生の第一歩となりました。

>>【第2回】お稽古やお座敷がみっちり…舞妓は修業の身
>>【第3回】お座敷での英会話は、花街らしくゆっくりと
>>【第4回】バイリンガル舞妓として世界に京都を発信

富津愈
舞妓
(とみつゆ)1997年、京都市生まれ。京都に5つある花街の一つ、祗園東の置屋「富菊」所属の舞妓。中学時代はニュージーランドに留学し、帰国後、約1年の仕込み(舞妓修業)を終えて、2013年夏に、見世出し(舞妓デビュー)を果たす。京都の花街では初となるバイリンガル舞妓として注目を浴びている。
祇園東 お茶屋「富菊」
この記事の執筆者
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Precious.jp編集部 
2017.7.9 更新
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クレジット :
撮影/竹田俊吾 文/天野準子