現在も、多くの企業が定年を60歳に設定し、なかには65歳までの継続雇用制度を導入しているところもあります。長年の職務から解放されて、第二の人生を新たな趣味に費やす…というのもよく聞く話です。ところで、あなたの周りに「定年してからそば打ちにハマってしまって…」という人はいませんか? なぜか、「定年退職した人はそば打ちに目覚めやすい」というイメージがあります。なぜそういったイメージが定着したのでしょうか?

今回は、定年退職者が惹きつけられるそば打ちの魅力を、そば打ち教室「江戸東京そばの会」の師範であり、「そば処 玄庵」の創業者でもある、貝塚隆雄さんに伺いました。

定年した人がはじめるイメージの強いそば打ち

■そば屋開業を目指す受講生のほとんどは「40、50代」

そば打ち教室「江戸東京そばの会」では、そば打ちを体験する「一日体験教室」、そば打ちを習得する「インストラクターコース」、そば屋を独立開業するための「プロコース」など、さまざまなコースを設けられています。受講生には、さぞ定年退職者が多いだろうと予想していましたが、師範を務める貝塚隆雄さんからは意外な答えが――。

「教室は20年前からはじめていますが、受講生の顔ぶれはここ数年間で様変わりしました。現在、定年退職をきっかけにそば打ちをはじめる人は、それほど多くありません。

コース全体の受講者のうち、8割が40代から50代。しかも、ほとんどがそば屋開業を目指すプロコースの受講者。みな、早期退職したり、もともと飲食店に勤務したりしていた方たちです。

どの業界も成熟を迎え伸び悩んでいるなか、飲食業は新規参入の余地がある。受講者は、その可能性に賭けて修行を積んでいます」

プロコースには、国内だけでなく海外からも受講者が集います。一日体験コースは、婦人会や会社の同僚グループなどの人たちが受講していて、意外なことに定年退職者はほんのわずかだそうです。

開業を目指したプロコースの受講風景。20日かけてそば打ちのノウハウを学ぶ

■調理経験の少ない男性だからこそ惹かれる、そば打ちの世界

貝塚さんによると、そば打ちをはじめる定年退職者には男性が多いのだそうです。はたして、その理由とは?

「一般的に、そば打ちは定年した男性がはじめるイメージがありませんか? 定年した男性が、数ある趣味のなかからそば打ちを始めるのには理由があります。彼らの多くは、高度経済成長時に朝から晩まで働きづめでした。定年して『料理を趣味にしよう』と思っても、料理をしたことなんてまったくないわけです。

そこで、料理のノウハウがなくてもはじめやすそうな、そば打ちに関心を持つのではないでしょうか」

自分が打ったそばを家族やご近所にふるまったり、贈ったりできるのも魅力のひとつ。奥さんにちょっと自慢できるのもポイントなのかもしれません。さらに、貝塚さんはそば打ちの奥深さも、男性を惹きつける理由だと話します。

「そば粉と水を配合する『水回し』をはじめに、生地の延ばし方、切り方、ゆで方、どれも繊細な仕事が求められるので、ただ手順を覚えればいいというわけではありません。製粉までふくめたら、完璧にこなすのはプロでもむずかしい。一般人ならなおさらです。しかし、その難しさが醍醐味。やり込み甲斐があって、男性の嗜好に合っているのでしょう。うちの受講生には、趣味が高じて10年通っている人もいるくらい」

メディアに登場する“そば職人”のイメージに憧れる男性も多いそうです。

「定年した人に限りませんが、男性は“職人”に憧れるきらいがありますね。テレビや雑誌に出るそば屋さんは、朝から仕込みに入って、寝る間を惜しんでそば打ちの腕を磨く…、果てなきゴールを目指すサムライのような佇まいが、男心をくすぐるんでしょうね。そういったかっこいいイメージが、うどんやパスタよりも浸透している」

貝塚さんのお店「手打そば処 玄庵」の「せいろそば」820円

■定年退職者には敷居が高い、開業への道

「江戸東京そばの会」のプロコースは、水回りからそばを切るまでの全行程のほか、製粉技術やメニューづくり、店づくりのノウハウを習得できます。受講期間は20日間。これまでにおよそ200人の受講者が開業しました。

「みなが気にする開業資金は、店をどの地域に出すかで差が出るので、一概には言えません。しかし、店舗に厨房設備や飲食スペースなどを造りつけるだけでも、500~600万円はかかります。都内なら当然賃料が高くなりますが、地方の自宅を改装して店を開けば、運転資金は抑えられる。

飲食店開業は『場所選び』がすべてといってもいい。いくらそばがおいしくても、お客さんが来なければ意味がありません。コースを卒業しても、立地決定に悩んでいる人も少なくありません」

貝塚さんは受講生に「マーケティング感覚」の修得も促しています。ちなみに、定年退職者のそば屋開業については、少しきびしい見解です。

「定年退職してからの開業は、あまりおすすめできません。やはり60歳を過ぎると体力が衰えてしまう。開業当初は楽しくても、多忙な日々に追われて、次第に経営に頭が回らなくなってしまいます。そうなると、辛くなってくるんじゃないかな。奥さんや家族に協力してもらう、くらいの覚悟は必要ですね」

そば打ち体験教室には、小中学生や外国人も参加する

たしかに、固定客を見つけて安定するまでは、店を切り盛りしながら手打ちそばを提供するのは大変そう…。とはいっても、多くの人がそば打ちに惹かれているのは紛れもない事実。「定年してから…」とは言わず、一日体験教室などで、その魅力の一端に触れてみてはいかがでしょうか?

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この記事の執筆者
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PHOTO :
江戸東京そばの会
WRITING :
名嘉山直哉
EDIT :
青山 梓(東京通信社)